品川駅高輪口(たかなわぐち)にやって来た戸部(とべ)アツマくんは非常にダルそうだった。山手線を使えば自宅のマンションからすぐ辿り着けるというのに。しかも彼は仕事休みなのだ。仕事を終えた後で品川まで向かったワケではないのだ。だらしないのヒトコト。不満過ぎてわたしの頭部の大きなリボンまでもが震え出す寸前だった。
土曜日ではあるのだが午後3時台とか午後4時台ならば居酒屋もさほど混み合わない。だからわたしは午後4時00分からの予約をとっていた。
無気力の戸部くんを居酒屋まで引っ張っていきたい気分だった。でも戸部くんの腕を引いたりするのはプライドが許さなかった。『彼の腕に触れるだけでもスキンシップになっちゃう』と思うと怖ろしい気分になってしまうのだ。
異性(オトコ)であるとあまり認識していない彼に折檻(せっかん)を施したコトは今までに何回あっただろうか。折檻もスキンシップに含まれるのだろうか。わたしとしては含めたくない。
「飲み放題にしなかった理由はなんだ。東京(こっち)に戻って来て羽根を伸ばせるんだから、酒をガブガブ飲みたいんじゃないんか」
真向かいの戸部くんが浅ましい声で訊いてくる。
わたしはグラスの中のスクリュードライバーを半分近くまで減らしてから、
「今回の帰京ではアルコール摂取量をいつもの半分くらいにしたいのよ」
「『いつもの半分くらい』? 理由は?」
理由理由ってうるさいわね。
頭の大きなリボンを外したくなってきちゃうじゃないの。
「あなたには教えたくない。あなたのパートナーには喜んで教えてあげるけど」
戸部くんは顔をしかめて、
「ずいぶんとおれのカノジョをご贔屓(ひいき)にするんだな」
愛(あい)ちゃんのコトを戸部くんが『カノジョ』と表現するのはかなり珍しい。戸部くんの顔つきとかはどーでもいいけど戸部くんの言い回しには敏感になる。頭の大きなリボンがセンサーみたいになってくれたらいいのに。戸部くんのコトバの裏に潜む本心を感知してくれるようなセンサーみたいに。
グラスの中のスクリュードライバーをほんの少しだけ減らしてから、
「愛ちゃんは今なにしてるの? マンションでお留守番?」
お留守番させていると彼が言うのならば怒るつもりだった。愛ちゃんにお留守番を要求する権利なんて彼には無いと思っているから。
「あいつは池袋の家電量販店に行ってる」
戸部くんが答えた。予想外な答えだった。愛ちゃんとヤ◯ダ電機の組み合わせがシックリ来ない。家電製品を物色している愛ちゃんが上手く想像できない。
× × ×
「池袋には、愛ちゃんの興味を引くようなお店や施設が沢山あるってゆーのに。どうして、よりによって――」
「おまえに家電量販店の悪口を言う権利なんかあるのか?」
「ななっ」
ヘンなリアクションコトバを思わず口から出してしまった。居酒屋を出たばかりの夕暮れの道。人通りは少ないからヘンなリアクションコトバを言っても恥ずかしくはない。恥ずかしくはないけど歩く脚が停まってしまう。戸部くんにたしなめられてムカつきの色の濃い感情が生まれてきているから。
「おまえが幾らムカムカピリピリしたとしても、おれは家電量販店の味方であり続ける」
戸部くんに立ち向かいたいわたしは彼をめがけて一歩前進して、
「敵だとか味方だとかはどーでもいい。居酒屋で訊けなかったから訊くんだけど、どんな家電を買うために愛ちゃんは量販店に行ったの」
「掃除機だ。円盤型の平たいロボット掃除機だ」
「商品名をぼかさないで。気持ち悪いわね」
「おまえがおれをキモがるのなら、商品名は絶対に言わん」
戸部くんがどうしようもなくって溜め息をつく。肩を落として目線も落とす。180センチ近いカラダの胃袋がある付近に眼が当たる。
「星崎(ほしざき)よー」
ふざけたような口調でわたしの苗字を呼び、
「今のおまえ、『楽しい』の反対じゃねーかよー。もっと『アゲて』いこーぜー?」
『誰のせいで楽しくなくなってるって思ってんの……』とココロの中で怒(いか)る。右手でワナワナと拳を作り上げる。堪忍袋の緒が切れるカウントダウンが始まる。
しかし、
「おれ、『準備』してきてたんだけどな」
と言う声からおフザケが微塵も感じられなかったから、兆してくる戸惑いで体温が下がり、兆してくる戸惑いで右手がほどける。
「じゅん……び……??」
首から上だけ体温が上がり始める。チカラの無い声を発してしまったわたしが眼を据えるのは戸部くんの胸の辺り。
「なんなの、じゅんび、って」
コドモの如き声音(こわね)になってしまうわたしに、
「おれの胸をガン見(み)するのをやめたら、答えてやる」
と言う戸部くんの声が降りかかる。
ためらってしまって、
「だめ。戸部くんの顔、みたくない」
と弱いコトバを弱い声で発してしまう。
わたしの方だけが気まずい沈黙が流れる。
「わーったわーった」
お気楽な声が降り注ぎ、頭部の大きなリボンに染み透る。
胃袋が冷え込むような感触がやって来る。それと同時に血流の音がうねりながら響き始める。
「顔は見なくったっていい。おれの顔なんか、見たってつまんないしな」
その声の後で一拍(いっぱく)が置かれて、
「耳は傾けてくれよな」
という、わたしをさらに怯えさせる声が発せられたかと思うと、
「一昨日は10月2日の木曜日だったワケだけどさ。『誰にとって大事な日なのか』って、おれは、ちゃーんとインプットしていて」
というコトバのすぐ後で、
「星崎。おまえは、一時的に、おれよりも『お姉さん』になったワケだ。2日遅れになっちまったけど、誕生日、おめでとう」
× × ×
ベッド上にヘアブラシを放り投げたわたしの腕っ節と『誕生日、おめでとう』と祝福してきた戸部くんの声のどちらがよりチカラ強(づよ)かっただろうか。
たぶん戸部くんの声の方だ。
寝る準備の仕上げが髪の手入れだった。手入れを終了した瞬間にヘアブラシをベッド上に放り投げた。ヘアブラシを暴力的に扱う悪癖(あくへき)を抑え切れなかった。
ダイビングの如き勢いでベッドに飛びつく。わたしの実家のわたしのベッドにうつ伏せになる。左サイドの床には8本のビール缶が転がっている。
8本という中途半端な量の缶ビールしか飲めなかったわたしは、悔しがるコトもできず、悔し過ぎて泣くコトもできない。
戸部くんなんかに誕生日を祝福されてしまったのに起因する鈍痛が絶えず疼(うず)いている。
……疼く反面、
「彼がわたしの誕生日を記憶できてたのは、評価に値しなきゃなんない」
と枕に向かって呟き、認めてあげたりもする。
それから、
「もう少しで、戸部くんが、『愛ちゃんを任せられる戸部くん』になってくれる……」
と2度目の呟きを発して、顔を枕にめり込ませる。
大きなリボンはとっくの昔に外している。