戸部(とべ)アツマくんの実家のお邸(やしき)での滞在が予定より長くなってしまい、自分の家に帰るのが面倒くさくなってしまった。
だから、お邸に泊まらせてもらおうと思った。その旨(むね)を戸部くんのお母さんの明日美子(あすみこ)さんに伝えたくて、「リビングD(仮)」に赴いた。
「リビングD(仮)」の命名者は戸部くんの妹のあすかちゃんである。お邸で4番目に大きなリビングだから、「D」という「仮称(かしょう)」を付けたそうな。
4番目の大きさながらもわたしん家(ち)のリビングよりもひょっとしたら大きいかもしれない「リビングD(仮)」に入っていく。明日美子さんが気持ち良さそうに夜のお酒を飲んでいる。
「あらぁ、むつみちゃんじゃないの」
わたしに気付いた明日美子さんがウィスキーグラスを卓上に置き、手指を軽く組んでわたしを穏やかに見つめてくる。
「どーしたの?」
息子の戸部くんとは大違いの優しさに溢れた声。
わたしは明日美子さんの間近のソファにふわり、と座り、
「今晩、邸(ここ)に泊まっちゃおうと思って」
手指を軽く組んだまま笑顔を絶やさない明日美子さんがジックリとわたしを見つめ続ける。
返答の声がなかなかやって来なかったので、少し不安になる。断られたコトは今まで一度も無かったんだけど……。
明日美子さんが組んでいた手指を解(ほど)き、両手のひらをぱん、と打ち合わせた。
「だったら、わたしのお部屋に来てみない!?」
テンション高めに彼女が言ってきたから、わたしの背筋がピィン、と伸びてしまう。
しかも、明日美子さんのお部屋に来るってコトは……。
「……あっあのっ、『お部屋』って、明日美子さんの寝室……ですよね?」
「もちろんよー」
と答えてから、即座に、
「わたしのダブルベッドで寝る方が、空き部屋にお布団敷いて寝るより断然安眠できると思うし☆」
と告げてきたので、わたしの背筋を緊張の冷や汗が流れていく。
× × ×
明日美子さんとの付き合いも長い。
カラダの弱いわたしが邸内(ていない)で調子を崩してしまった時、明日美子さんに「お手当て」してもらったコトが何回かあった。介抱してもらうたびに、明日美子さんとの距離が縮まった。
明日美子さんがわたしに対して『葉山(はやま)さん』呼びだった時期はほんの僅かで、気が付けば『むつみちゃん』呼びになっていた。
わたしの大好きな幼馴染男子・キョウくんのお母さんである鈴子(すずこ)さんに『むつみちゃん』と呼ばれる時とは違った感触がある。明日美子さんに『むつみちゃん』と呼ばれると、なんというか、胸のあたりがくすぐったくなる。どうしてだろう。明日美子さんが戸部くんのお母さんだからだろうか。キョウくんと戸部くんでわたしの接し方は全然違う。息子への接し方が全然違うが故に、それぞれのお母さんによる『むつみちゃん』呼びから受け取るモノも……。
× × ×
「むつみちゃーん?」
右サイドからの明日美子さんの呼びかけ。少しヒヤリ、となってしまう。
「そんなに端の方で寝ちゃったら、床に落っこちちゃうかもよ?」
かなりヒヤリ、となってしまう。確かに明日美子さんの言う通りなのだ。明日美子さんに背を向けて床方面を見ながら寝転んでいる。理由は、緊張が収まらないから。明日美子さんに接近すると、顔面が燃え上がってしまいそうで……。
「落っこちたくないでしょ、ダブルベッドからだけじゃなくって、京都大学からも」
巧妙な言い回しでわたしの受験に触れてくる彼女。わたしのカラダの向きが変わる。床方面への横向きから仰向けになり、彼女への「背中見せ」が終わりを告げる。
右サイドの明日美子さんへと遠慮気味に視線を傾けてみる。
途端に、わたしの右手に彼女の左手の感触が兆して、びっくりする。右手を包み込んでくる柔らかさにもびっくりする。
「ごめんねえ、いきなり右手、ギュッとしちゃって」
体温が0.5℃上昇するわたしに、
「『イヤらしい』と思ったら、『やめて』って言っていいからね、いつでも」
と明日美子さんは言うけど、
「『イヤらしい』なんて思ったりは、しません。明日美子さんのこういうスキンシップ……わたしへの優しさとか、気くばりとかが、染み込んでるって感じるし」
「ホントーにそう感じてくれてるの?」
「明日美子さんに、嘘なんかつかないです」
そう返答したまでは良かったのだが、
「戸部くん……じゃなくてアツマくんには、嘘を連発してるけど」
と、余計過ぎるヒトコトを付け加えてしまう。
優しさに包まれていると共に戸惑いにも包まれているコトの証になってしまった。「惑乱(わくらん)」というかなんというか。そういう漢字2文字に、限りなく近付いてきている……!
謝るコトもできず、明日美子さんと共有のはずの掛け布団を強引に引っ張り、中に潜り込もうとしてしまう。
明日美子さんはわたしの行為を咎める代わりに、
「アツマの仕事場のカフェ、今週もたぶん行ったんでしょ? むつみちゃんは『リュクサンブール』の常連客なんだもんねえ」
掛け布団の裏側を自分自身の熱で温めてしまうわたしは、
「今週は、まだですっ」
「あららー、どーしてー??」
「きょっキョウくんとっ、横浜で一緒にショッピングしたりしてっ、忙しかったからっ」
「うわぁー」
えええっ!?
『うわぁー』って、なに!? そのリアクション、なに!?
「お熱(あつ)いのね」
掛け布団の裏側が焦げ付くほどに発熱してしまうのを助長するようなコトバを彼女は言ってきてから、
「幼馴染である以上に、恋人同士なんだからねぇ~~! キョウくんのお家から遠くない横浜でショッピングするのも、はかどるでしょ~~☆」
× × ×
割りととんでもない夢を見てから目覚めたのだが、文字数その他の事情によって解説は省略する。
『明日美子さんのカラダに結構ベタついてた』という自覚が寝起きの瞬間からあった。わたしが無意識の内に明日美子さんの肌触りを欲していたのだから、どうしようもなかった。身を起こした直後に肩をすぼめるのも当然の帰結だった。
「むつみちゃん」
わたしより早く目覚めていた明日美子さんはわたしの右サイドに留まり続けていて、
「おはよう」
と元気よく挨拶をしてきて、わたしを恥じらわせる。
小学生の如き幼い声が震えるのを抑え切れないわたしは、
「おはようございます……」
と弱々しい挨拶しかできなくなる。
「むつみちゃぁん」
再びわたしの名を呼ぶ明日美子さんは、
「ヘアブラシ」
とだけ口にしてから、わたしの右手にヘアブラシを近付けてくる。
どこからヘアブラシを出してきたんだろう。四次元ポケット??
「……わたしの髪、キレイの反対ですか」
落胆の度合いを強め、明日美子さんに訊く。
でも、右サイドでわたしと同じように身を起こしている明日美子さんからは、
「キレイの反対じゃないわよ。キレイのキレイよ」
という声が届いてくるだけ。
差し出されたヘアブラシを握る適切なチカラがわからないままに差し出されたヘアブラシに手を伸ばしながら、
「だったら、わざわざヘアブラシ提供してくる理由って」
と、不甲斐無い声しか出せずに問うけど、
「キレイの中のキレイな黒髪なんだから、『クオリティ』は保たなきゃ。『クオリティ』を保ってないと、わたしの息子に上手な嘘をつけないし、愛する幼馴染のオトコノコを上手に抱き締められなくなっちゃうでしょー?」
と、明るい声が返ってくるから……ギュヌッ、と左手で掛け布団にシワを作ってしまう。