勇気が出ない。パジャマのままで幼馴染の男の子を玄関で出迎える勇気が。
わたしの他に誰も居ないリビングのソファに座り込んでいる。時計の音だけがリビングに響く。
今からは着替えられない。とても時間がかかってしまう。女子の着替えとはそういうモノだ。パジャマを着たままキョウくんが来るのを待つしかない。
キョウくんにパジャマ姿を見られることすら未だに恥ずかしい。20年以上前からのつきあいなのに。しかも、ただの幼馴染を超えた関係になっているのに。
高校を卒業した後でキョウくんにパジャマ姿を目撃されて顔が真っ赤になったことが何度もある。下着を見られるのとパジャマを見られるのとどっちがより恥ずかしいのか、もはやわからなくなりつつある。
パジャマから着替える機会を逃したが故に、パジャマに身を包んだままのわたしの目線が著しく下降する。ソファの前のテーブルではなくテーブルの下の床を見ている。
× × ×
ピンポンが鳴り響いた。
一瞬立ち上がれなかった。
恐る恐る腰を上げた。床を叩くようにスリッパを動かす。
玄関ドア前まで来る。解錠してあげる前に、要るはずもない深呼吸を3回以上繰り返してしまう。
『おーい』
彼の声が漏れ出てくる。背中じゅうが冷え冷えとなる。
黄緑色のパジャマに覆われた小さな胸を押さえる。
だんだんと、ドアを開けてあげないわけにはいかなくなってくる。
とうとうロックを解除し、とうとうドアノブを握る。ドアノブを握る右手に余分過ぎるチカラがこもる。
9月下旬だというのに、幼馴染の男の子の肌はさらにコンガリと焼けている。
キョウくんの日焼けにエネルギーの漲(みなぎ)りを感じる。キョウくんが漲(みなぎ)っているから、必然的に眼を逸らしてしまう。
不甲斐なさに満ちたわたしに、
「どーしたの、むつみちゃん?」
というキョウくんの呑気(のんき)な声。
くちびるを噛み始めていたら、
「もしかして、パジャマなのが、恥ずかしかったり?」
と、彼が言い足してきて……。
× × ×
「パジャマでもいいじゃんか」
わたしのお部屋のほぼ中央であぐらをかくキョウくんがそう言ってきた。
驚いたし、なんだか叱られたような感じもした。
わたしはわたしのベッド上から過剰に眼を凝らしてキョウくんを見下ろしてしまう。
『なんで見つめてくるの?』と彼は問うこともなく、
「パジャマのまま恥ずかしくなるのは卒業だと思うよ」
わたしのカラダが前に傾き、
「どうして?」
という問いがこぼれ出てくる。
キョウくんはなぜか、おどけたように笑いながら、
「どーーしてもっ」
と答えてくるだけ。
「そんな」
わたしは弱い声を短く出し、身を縮めてしまう。競走馬のぬいぐるみをクローゼットにしまったのは失策だった。あれがあれば、追い込まれてくる感じも緩んで和らぐかもしれなかったのに。
縮こまりながらも、キョウくんの顔面から眼が離せない。
彼の顔つきが少し真面目になったのを容易に把握してしまう。
「むつみちゃんは、今年で何歳になるんだっけ」
『どうしてそんなこと訊くの。憶えてないわけないのに』という思いをココロの中だけに留まらせる。そんなことを訊く意図がキョウくんには必ずある。
その意図がどんな意図なのかは、まだよくわかんないけど、
「25歳」
と、膝と膝をくっつけるような姿勢になりつつ、わたしは答える。
「じゃあ、もっと自然な感じの方がいいよ」
彼のコトバがとっても漠然としていたから、
「それは、わたしの今のカラダの姿勢を言ってるの?」
と訊くけど、
「いや、もっと……こうさ、全体的に」
という答えしか返ってこなかったから、戸惑いが増してしまう。
そもそも、『全体的に自然な感じ』というのと、わたしが今年で25歳になることとの関連性がわからない。
さらなる困惑も仕方がない。
ラチがあかないから、キョウくんの日焼け顔を見つめる。
日焼けした首も見つめる。日焼けした腕も見つめる。ズボンや靴下に隠されていない脚の部分の日焼けも見つめる。
そして、わたしの眼は彼の日焼け顔へと戻ってくる。
× × ×
日焼けオデコをまじまじと見つめていると、少しも論理的ではなかった『自然な感じの方がいい』というキョウくんのアドバイスを、次第に受け入れられるようになってくる。
『理屈抜きでいいや』と次第に思うようになってくる。
いちばん理屈云々ではないのは、もちろんキョウくんの日焼けである。
日焼けしたオデコにも日焼けした目元にも説得力が充溢(じゅういつ)している、気がする。
通じ合った感覚を強く持てているから、
「なんだかビミョーな空気作っちゃってゴメンナサイ」
と柔らかく謝り、カラダを縮こめるのを終わらせる。
「いやいや、おれのアドバイスもわかりにくかっただろーし」
そんなキョウくんのレスポンスを華麗にスルーして、
「わかったわよ。自然な感じのわたしを見せてあげる」
と言い、右手指をヘアピンに作為的に近付けながら、
「今は、ちゃんと着替え済みなんだけど……仮に、わたしが1日中パジャマで過ごしてたとしても、なんとも思わない?」
キョウくんはチカラ強き微笑で、
「思わないよ」
黒髪をさらさらさら……と右手で撫でていくわたしは、
「じゃあ、新しいパジャマを買うわ。できるだけ早く。あなたのためにね」
キョウくんは若干の呆れの混じった微笑で、
「まじかー」
彼のリアクションに構わないかの如く、ベッドの上からするり、と立ち上がって、
「お勉強始めるわ」
「おれはどうしてたらいいの?」
「こまめに休憩入れて、あなたとおしゃべりしてあげる。あなたも退屈しないし、わたしのリフレッシュにもなるから、一石二鳥」
「一石二鳥かぁ」
わたしの背中の彼は絶対にトボけた苦笑で言ったはずだから、リアクションに構ってあげることなく、参考書やノートを机上(きじょう)に開こうとする。
「お題は?」
この問いに、わたしは、参考書の練習問題に取り掛かり始めながら、
「京都を走ってる鉄道車両、とか」
と回答してあげる。
「おれの趣味に合わせなくても」
「ちがう。わたしがきょーみあるの。京大受けるんだから、25歳の誕生日の後で」
「なるほどね」
数字も記号もあまりキレイとは言えない数式をノートに記しながら、
「叡山電鉄って知ってるでしょ?」
と確認したら、キョウくんが即座に、
「もちろん!」
と元気よく応答してくれたから、わたしのカラダとココロの全部が幸せに満たされ始めていく。
キョウくんのコトバじゃないけど、『全体的に自然な感じ』に、幸せに満たされていくのだ。
数式を記し切って、シャープペンを置く。椅子の向きを180度変える。
それから、
「やっぱりキョウくん大好き、わたしの期待に応えてくれる」
とキモチを目一杯伝えて、「160.5」の身長よりも「110以上」数値が低い軽いカラダを颯爽(さっそう)と椅子から浮かせていく。