クローゼットの中の掃除を終え、勉強机に歩み寄る。勉強机の中央に文庫本が置かれている。新潮社という出版社が出している「新潮文庫」だ。
村上春樹さんという作家さんが書いた『雨天炎天』という本である。ノーベル賞の季節になるたびニュースになるから、村上春樹さんが小説家として世界的に有名なことは知っている。ただ、『雨天炎天』は小説ではなく、旅行記だった。ギリシャやトルコを旅した時の記録らしい。小説よりも旅の記録の方に惹かれたわたしは、新潮文庫の棚に並ぶ青い背表紙の中から『雨天炎天』を選び取り、レジに持って行った。
人生初の新潮文庫だった。本を読むのは、2年前の夏休み以来。読書感想文の宿題が出たから、課題本を35ページまで読んだ。読書の習慣は現在に至るまで全く無かった。新潮文庫と角川文庫と集英社文庫がどう違うのかなんてわかるワケも無かった。
そんなわたしが新潮文庫を買って読もうとしたのは、城(じょう)ミアさんの影響だ。城ミアさんは、わたしより産まれ年度が4つ上の女性だ。若干無造作だけど髪がかなり長くて、割りと長身(164センチってトコロだと思う)。
ミアさんとは常磐線の車内で出会い、知り合った。わたしが物思いにふけっていたら、真向かいの座席に座っていたミアさんがチョコレートを差し出してきた。乗り継ぎのために水戸駅で降りた直後には、もう連絡先を交換していた。孤独な常磐線になると覚悟していたけど、ミアさんが話し相手になってくれた。まるで1日中話し相手になってくれたかのような感覚があって、その感覚は今でも胸の奥に残っている。
ミアさんの趣味は読書だった。特に新潮文庫を集中的に読んでいるらしかった。ミアさんの新潮文庫好(ず)きが、わたしを書店の新潮文庫の棚に向かわせた。
× × ×
「小麦(こむぎ)、新潮文庫なんて読んでんの!?」
わたしの部屋に入ってきた直後に、尾石素子(おいし もとこ)ちゃんが叫んだ。わたしより全然ちゃんとしている娘(こ)なんだけど、驚きに出くわした時に大声を上げたりすることがよくある。
ベッドに座るわたしは、わたしと同じくらいの大きさの素子ちゃんの背中に、
「大声過ぎるよ、絶叫みたいだったよ」
と、苦笑いしながら言う。
クルリと振り返り、
「だって、パーフェクト理系の小麦が新潮文庫を購入したこと自体が衝撃だったんだもの。しかも、村上春樹」
と素子ちゃんは言う。
「パーフェクト理系だったら、本を読んじゃいけないの?」
苦笑いと落ち着きを保ってわたしは返すけど、
「いかにも『読書感想文の課題図書を冒頭で挫折する』キャラでしょ、あんたは。ギャップが凄すぎるってことよ」
『ギャップ』って、何と何のギャップなのかな。
……まあいいや。
「買ったけど、全然読めてないんだよ」
とわたしが言ったら、
「全然読めてないのは、余裕で予想範囲内なんだけど」
と言ってきた後で、素子ちゃんが、
「あたしがいちばん知りたいのは、あんたが書店に向かった理由」
ミアさんのことをどの程度素子ちゃんに伝えていいのか一瞬迷いかけたけど、素子ちゃんの疑問にはしっかりと答えたかったから、
「オトナのオンナのヒトと出会ったんだよ、読書が好きな」
「え」
素子ちゃんの眼がやや大きくなる。
勉強机手前の椅子にようやく腰掛けた素子ちゃんは、背筋を伸ばしつつ腕組みをして、
「いつ出会ったの、どこで出会ったの、そのヒトはどんなヒトだったの」
× × ×
ミアさんと出会った経緯を大まかに伝え、ミアさんの外見的特徴や外見的でない特徴も大まかに伝えた。
「……ふうん」
ミアさん情報をゲットした素子ちゃんは、わたしの方角ではなく、わたしから見て右斜め前の窓がある方角に眼を凝らす。
いったい、素子ちゃんは、わたしとミアさんの出会いを聴いて、どんなふうに感じたんだろうか。
素子ちゃんが再び口を開くのを待とうと思った。
やがて、顔の向きを元に戻してくる素子ちゃんが眼に映った。真正面からわたしを見てくる素子ちゃん。
感じたことを言ってくれるのをわたしは期待していた。
でも、彼女はわたしをまじまじと見てくるだけで、口を開こうとしてくれない。
しかも、さっきまで背筋がぴん、と伸びていたのに、徐々にしかし着実に前のめり姿勢になってきている。
視線もカラダもわたしに接近してきている。ベッドのわたしは仰(の)け反(ぞ)ってしまう。無言も凝視も前傾姿勢も、全部わたしを脅(おびや)かしてくるような……そんな感覚。
コワいだけではなく、イミがわからない。
この部屋にわたしと素子ちゃんのふたりしか居ないことも、困惑の汗が背中を流れる原因になる。
わたしがベッドに腰を下ろしている位置が、だいぶ壁寄りになる。素子ちゃんの勢いに圧(お)されたから。
「ねえ、小麦」
短く口を開く素子ちゃん。コトバが迫ってくるような錯覚を覚える。
「あんたはさっき、ミアさんの『オトナなトコロ』を、ずいぶん強調してたけど」
そう言ってから、口を動かすのをいったん止める素子ちゃん。コトバは途切れているけど、くちびるが明確にニヤけているから、ツラい汗がわたしの背中に生まれて垂れてくる。
「あたしの個人的意見だけど――」
満面のニヤけ顔になっていく素子ちゃんが、
「小麦。あんただって、相当『オトナのオンナ』でしょ」
一瞬、脳内が真っ白になるかと思った。
なんにもレスポンスができない。満面のニヤけ顔を持続させる素子ちゃんが、眼に映るだけ。
「あたしがいつも鏡で見てるあたしと比べたら、一目瞭然よ」
いちもく……りょーぜん??
「こーむーぎっ♫」
素子ちゃんの表情が、満面のニヤつきから、純粋な笑みに移行していく。
すごく軽快な声で、素子ちゃんは……こんなふうに、指摘する。
「オトナになったし、美人になった、あんたは。これも個人的意見なんだけど、あんたには一刻も早く、『あんたの美人』に気付いてほしい。『あんたの美人』をあんたが自覚できたなら、あんたはココロまですっかりオトナになれると思う」
彼女の指摘が浸透するのに時間がかかる。
時間をかけて指摘が浸透した結果、激しい動揺にわたしは襲われる。
繰り返し『美人』と言われたのを受け止め切れるワケが無い。
視線がグラグラ揺れるような感覚。
揺れるような感覚が気持ち悪くさせるのは、わたしのココロ。
感覚の揺らぎを懸命に抑えつけながらも完全に下を向いてしまうわたしは、
「根拠、言ってよ。根拠を付けてくれないと、納得できないよ」
と弱い声をカーペットに向けて漏らしてしまう。
ショート丈(たけ)のトップスと合わせたワンピースの側面を右手でギュッ、と握ってしまう。
「2つあるのよ」
彼女は、お気楽に、
「1つは、髪が伸びまくりなコト。もう1つは、お肌の透明感が上昇しまくりなコト。……『論理的に』詳しく説明してあげる、パーフェクト理系のあんたの納得がいくまで」