太刀川(たちかわ)ヒカリちゃんは館外にいるらしかった。読書を切り上げて、『オーテピア』の外に出て、蝉時雨(せみしぐれ)の中を歩き始めた。
LINEによれば、オーテピア近辺の某所のベンチに座っているらしい。夕暮れの兆しが僅かに見え始めた空の下を、ヒカリちゃんが伝えてきた場所に向かって歩いていく。
× × ×
木陰のベンチに腰を下ろす長身の23歳の女の子をわたしは正面から見下ろしている。発見した太刀川ヒカリちゃんを見下ろしている。
木陰の中で薄茶色の短髪がきらめいているし、右耳だけに付けているイヤリングもオトナっぽさを増すアクセントになっている。
でも、元気が無い。
一昨日や昨日はお肌に満ち溢れていた潤いが見られない。目元に陰鬱な感じが見て取れるのは彼女が寝不足だからなのだろうか。顔だけじゃなくてカラダからも元気が抜け出しちゃっているような気がする。170センチを超えるカラダのラインは本来流麗なはずなのに、細さが目立ちすぎて、弱々しい印象を与えてくる。ジーンズに包まれた長~い脚にも迫力が無い。胸の大きさというどうにもならない点以外は完璧なはずの体型が、持ち味を発揮できていないのだ。
「ゴメンね、強引に呼び出したみたいになって」
勢いの全く感じられない声でヒカリちゃんは謝った。
「全然気にしてないわよ」
とりあえずコトバを返す。……一昨日や昨日のテンションとは真逆の落ち込みぶりに戸惑いながら。
「ゴメンなさい、マジでゴメンなさい」
そう言って首を小さく横に振るヒカリちゃん。
もう3回も『ゴメン』を彼女は繰り返した。どうしちゃったっていうの。
「あなた、どうかしたの? お酒の飲みすぎで体調が急降下してるとか?」
問わずにはいられなかった。せっかく旅の高知で結んだ友情だ。心配を注げるだけ注いであげたい。
わたしも彼女も明日の列車で関東へと帰る。わたしは東京、彼女は神奈川。帰りの土讃線(どさんせん)特急『南風(なんぷう)』に乗車できなくなるレベルまで体調が悪化しないにしても、列車の旅は長丁場になるのだから、持ち直すに越したことは無い。
「アルコールではないの、原因は。アルコールには、強いの。たぶん、愛(あい)ちゃんよりも、酔いにくいと思うの」
わたしより酔いにくい自信があるのなら、
「もしかしたら、原因は、カラダじゃなくて、ココロ?」
わたしの問い掛けの約2秒後、ハッ!! としたようにヒカリちゃんの眼が大きく見開かれ、かなり視線が上昇した。
でも、いったんはわたしをまじまじと凝視したヒカリちゃんは、萎(しお)れるような俯(うつむ)きに結局は戻ってしまった。
蝉時雨はいつの間にか弱まっていた。人通りもまばらで、心地良くない静けさが漂う。
ヒカリちゃんが、ポショッと、
「わかるのね、愛ちゃんには」
と声を漏らし、
「十年来(じゅうねんらい)の親友みたいに、通じ合ってる感じね……」
と細く声を漏らして、
「メンタルに、『来ちゃった』のよ。ツラいの、ヒトコトで言えば。何がツラいのかって言うと、あたしの……現状」
必然的にわたしは息を呑む。
やや焦りを覚えながら、
「昨夜の『打ち明け』が、マズかったんじゃないの!? わたしのせいで、『傷口』が開いたみたいになっちゃったんじゃ……!!」
中学2年の時。14歳の時。思春期という人生でいちばん大事な時期に、人生でいちばん大きな不幸を味わい、夢を永遠に追い求められなくなったヒカリちゃん。
新しい生き甲斐ができて立ち直れた、とは言っていたけど、彼女固有の悲しくて痛い過去は、わたしの想像を絶するモノが、やっぱり……!!
「……謝るのは、断然わたしの方だわ。同じホテルが宿泊場所だからって、わたしの部屋に呼んで軽々しく『傷口』をほじくるような真似をしちゃって――」
「やめてっ、愛ちゃん」
遮るヒカリちゃんの声に怒りのトーンは無かった。ココロの弱さが露出しているかのような声だった。
どんどん狼狽(ろうばい)していくわたし。
「あたしのために、謝らないでっ」
哀しみを帯びるヒカリちゃんの声。
× × ×
厳しい残暑とは正反対の凍えるような沈黙が、ふたりの間に長時間下り続けていた。
『ラチがあかない』というレベルじゃないから、『ヒカリちゃんの隣に座って寄り添うぐらいの行動はしてあげなきゃ……』と、決意をなんとかして絞り出そうとした。
でも、両脚が思うように動かない。視線も真下に落ち込む。このままじゃ、いろいろな意味で、ダメなのに。
9回裏ノーアウト満塁のマウンド上のリリーフピッチャーの如く追い込まれてくる。
マウンド上から次に投じる球を完全に見失う寸前。
……そんなピンチのさなか、
「現状、って言ったけど、あたし」
と言うヒカリちゃんの声が、鼓膜に届いてきた。
「現状がツラいのも問題だけど、将来が見えてこないのも、問題で」
地面から視線を引き抜くことができないわたしに、ヒカリちゃんは、
「院浪人した甲斐は確実にあったの。だけど、院で過ごした後のヴィジョンが、じょうずに思い描けなくって」
ためらい気味になりながらも、わたしは、
「文学の研究がしたくて、院に行くんでしょ……? 研究に楽しく打ち込んでいたら、そのうち、進むべき道や、進みたい道が……」
と言いかけるんだけど、
「……ううん、軽々しくアドバイスしちゃったら、いっそうあなたを傷つけちゃうわよね。下手なこと、言っちゃいけないんだと思う」
と、不甲斐なさを露わにしてしまう。
混迷の領域に脚を突っ込みかけていたら、
「『あしば』」
という声の響きが、わたしの鼓膜を震わせた。
『あしば』?
確かに言った、ヒカリちゃんは、『あしば』、と。
「『あしば』が、無いような、感じがして」
……そうか。『足場(あしば)』と、彼女は言ったんだ。『足場』が、無い。つまり、不安定である状況の、言い換え。
現状も安定していないし、未来も安定していない。
共感は、できる。強めに。いや、強く。
重なる部分もあるから。
重なるから、重ねる。嘘偽りの無い強い共感によって、彼女のココロに自分のココロを寄せていくわたしは、次第に、目線を上昇させていけるようになる。
彼女の痛みとわたしの痛みが重なるから、痛みと痛みが響き合って、針のようなモノが胸の中をチクリ、と刺してくる。
でもそれは、耐えられる程度の針の太さにすぎなくて。こういう「刺され方」なら慣れているから、同情の中にいつまでも浸るのではなく、意味があり意義のある行動を見出すのに積極的になることができる。
それが、わたしらしさ。わたしがわたしである証明の中の1つ。
見通しは、立っている。
最善の「なぐさめ」の方法を考え出すだけだ。
まず、
「『足場』が無い人間は、あなた1人じゃないから」
と眼前(がんぜん)の彼女に声を掛ける。
目線をだいぶ上げられているから、彼女の弱った顔を見下ろせられている。
わたしは、『あなた1人じゃないから』というコトバに、愛情を濃厚に含ませた笑顔を付け加えて、それから、
「わたしだって、何から何まで、不安定」
とリズミカルに言って、『あなたと痛みを『共有』してる存在がここにいるよ』というキモチをヒカリちゃんに差し出してあげる。
「ほんとう……?」
大きくて丸くて弱々しい眼で言うヒカリちゃん。
幼い。
まるで、思春期のカラダの変化に直面して、恥ずかしさもあるけれど、お母さんとか、最も身近な存在に助けを求めざるを得なくなっちゃったみたいな……そんな瞬間に逆戻りしたかのようだ。
意外に、こんなに身長が高くて脚長(あしなが)でスタイルの美しい娘(こ)は、『そういう変化』に直面するのが、周りの娘より遅かったりするのよね。
……言わないでおくけど、今は。
わたしが若干邪悪な苦笑いをしちゃっているから、デリケートに幼き表情のヒカリちゃんの戸惑いが増していく。
もちろんその戸惑いを放置するわけも無く、わたしはわたしの敏捷性を取り戻して、ベンチに座するヒカリちゃんの左サイドの空間に素早く腰掛けてみる。
そしてそれから、敏捷性をフルに発揮して、あっという間に、薄茶色ショートボブの彼女の頭頂部に、ぽーん、と右手を置く。
右手のひらを動かして、ナデナデ。お母さんか、あるいはお姉さんみたいに。
どちらかというと、お母さんかな。この娘、ひとりっ子だって言ってたから。
「……ひとりっ子は、淋しい時も比較的多いわよね。わたしは弟がいて弟が可愛いから、弱さの穴が埋まる時も多いんだけど」
そう告げてから、息を軽く吸い、そして、思い切って、
「わたしの指摘、当たってるんじゃないの、ヒカリ?」
「……えっ」
呼び捨てにされた『ヒカリ』は、わたしを一気に凝視するようになって、
「あなた、あたしのこと、いま、呼び捨てに」
「びっくりしちゃった?」
撫でるように、訊く。
絶句のヒカリが、視界に入る。
まるで、自分自身の思春期に直面した瞬間みたいな、驚き方と、狼狽(うろた)え方。
すっごく可愛い。