『ひろめ市場(いちば)』での「飲み」を早めに切り上げ、わたしも太刀川光(たちかわ ヒカリ)ちゃんも泊まっているホテルへと向かった。
2人が向かうはわたしの部屋だ。『来たくなった?』とわたしが訊いたら、『来たくなった』と答えてくれた。大勢の人がいる場所ではできないような「深い」話ができたら嬉しい。
カードキーで部屋を開ける。わたしはベッドに腰掛け、ヒカリちゃんはデスクに備え付けの椅子に腰掛ける。群青色(ぐんじょういろ)のジーンズの長い脚が目立つから、ヒカリちゃんのカラダを改めて羨(うらや)ましく思ってしまう。
「乾杯(カンパイ)しましょーよ」
ヒカリちゃんが言ってきた。ホテルへ向かう道中でお酒やおつまみなどを買っていたのだ。『ひろめ市場』の延長戦……というワケ。
「カンパイなら、さっきしたでしょ」
わたしは苦笑して言うけど、
「何度カンパイしたっていいでしょ?」
と言うヒカリちゃんは、某・黒ラベルビールのロングサイズ缶を早くも握っていた。
黒ラベルのロング缶が握られていたのは左手。
ヒカリちゃんが左手を多く使うコトが気になりつつも、
「OKよ。あなたのキモチに応えてあげる」
と、某・ワンカップな日本酒を右手に掲(かか)げ、前方の彼女へと距離を詰める。
黒ラベルをゴクゴク飲むヒカリちゃん。
缶を持っているのは、やっぱり左手だ。
わたしは、とうとう、
「ヒカリちゃんって、『両利(りょうき)き』? 箸を持つ時、右手で持つコトもあるけど、左手で持つコトもあるわよね。左手で箸を使うのも慣れてる感じがする。箸を使う時だけじゃなくて、ビールジョッキやビール缶を持つ時も、左手を使うコトがかなり多いって感じるの」
と気になっていたコトを打ち明けてみる。
「あー」
と言い、左手の黒ラベル缶を机上(きじょう)に置いたヒカリちゃんは、
「右手だけじゃなくて左手も多く使うのには、理由があって」
わたしのカラダが少し強張(こわば)る。『理由』という単語が彼女の口から出てきた途端に強張り始めた。
相対(あいたい)している彼女の奥底にデリケートなモノが眠っているような気がする。そのデリケートなモノをわたしが目覚めさせてしまったとしたなら……。
強張りの増していくわたしに対して、ヒカリちゃんは優しい眼差(まなざ)しを送り届けてきていた。
自分の「事情」を言うのを躊躇(ためら)う様子も無いヒカリちゃんの口から、
「もともと右利きだったけど、右手、ケガしちゃったのよ」
という決定的なコトバが発せられた。
ドクドクドク、とネガティブな血流の音がわたしの中で響く。
「ケガは、中学2年の時。右手が上手く使えないから左手メインで暮らしてた時期が結構長くて、やがて、両手を均等に使うようになっていった」
マズい部分に触れてしまったとしか思えなかった。
浅はかだった。彼女が他人(ヒト)を入れさせたくない部屋に、わたしは土足で踏み込んでいってしまった……。
罪悪感が一気に膨らんでいく。ヒカリちゃんの顔が上手に見られなくなる。しなしな、とベッドから降り、ワンカップな日本酒を床にチカラ無く置き、両膝を抱え込み、小さくなる。
「ごめんなさいっ」
弱い謝りコトバを絞り出すわたし。
見下ろすヒカリちゃんは、
「いいのよいいのよ、そんなにショゲないでよ」
と言ってくれるけど、
「わたし、調子に乗り過ぎてた。ヒカリちゃんと2人きりで話せる嬉しさで、浮かれてた。不注意で、不用意なコト、言っちゃった。幾ら謝っても、謝り足りない……」
「そんなコト、無いから」
穏やかで優しいヒカリちゃんの声が降りかかってくる。胸の肌寒さが増して、顔を上げるためのエネルギーが減っていく。
「愛(あい)ちゃん、意外にナイーブなのね」
指摘されて、胸が疼(うず)く。
ヒカリちゃんが椅子から離れる音が聞こえてくる。
わたし同様に床座りになるヒカリちゃんの顔に、恐る恐る眼を寄せる。
わたしに負けないくらい美しい顔立ちのヒカリちゃんが、わたしのお姉さんであるかのように見えてくる。わたしは弱い妹で、彼女は強いお姉さん。
「10年近く前の出来事なんだし、割り切れてるから」
彼女はそう言うけど、また胸が疼いて、
「ただのケガじゃ無かったんでしょ、たぶん……? 人生に影響するぐらいの……」
すぐさま、
「よくわかったね」
という声が聞こえてきたから、体感温度が10℃下がる。
「通じ合ってるんだ、やっぱり」
という彼女の声も、ココロの凍(い)てつきを助長させる。
「たしかに、『あの時』は、未来を見失った。14歳で、人生でいちばん大事な時期の、人生でいちばん大きな挫折だった」
わたしは弱々しく首を横に振りながら、
「そんなにつらいコトを、どうしてそんなにカンタンに打ち明けられるのっ」
と喚くように言うけど、全く動じないヒカリちゃんは、
「乗り超えられたから」
とアッサリ答える。
どうして……そんなにカンタンに言えるの、言っちゃえるの。
わたしと比べて……強過ぎるでしょ。
「『人生でいちばん大きな挫折』なんでしょ? しかも、思春期の真っ只中の……。10年未満で、どーやって乗り超えられるってゆーのよっ!」
わたしの叫び声は最後には怒鳴り声のようになっていた。
「落ち着いて、愛ちゃん」
なだめるヒカリちゃんに、
「押し留められないのよっ」
と反発してしまうけど、
「愛ちゃん」
と再度名前を呼ばれて、
「いい機会だから、詳しく話そうと思うわ。あなたならば、あたしの『これまで』を受け止めてくれると思うから」
× × ×
ヒカリちゃんは、朝から晩まで右手を動かし続けても疲れを知るコトが無いぐらい、絵を描くのが大好きなコドモだった。
絵を描くコトしか頭に無かったから、将来の夢はもちろん画家だった。右手を動かして自分だけの世界を表現し創造するのが何より楽しかった。ほとんどの人間に朝から晩まで没頭できるモノが無いのが不思議でならなかった。手を動かそうとしない人や何もしようとしない人が眼につくと、苛立ちを覚えてしまうコトもあった。そういった人々のキモチが理解できなかった。
中学2年の時に右手を大ケガして、自分自身の「驕(おご)り」を初めて自覚した。できない人にはできない理由があって、やろうとしない人にはやろうとしない理由がある。その理由がどれほど「ちっぽけ」であっても、バカにするコトはもう不可能になっていた。
絵描きには復帰できると思っていた。でも、甘かった。
右手が少し癒(い)えてきた頃に、久々にキャンバスの前に立った。右手に持っていた絵筆がぽとり、と落下した。絵筆が自然に利き手から落ちたのを受け入れられず立ち尽くしていたら、次第に頭の中がパニックになっていって、その場にへたり込んでしまった。髪の毛を激しく掻きむしっていたのをお母さんに発見された時、キャンバスの手前の床は大量の涙で濡れていた。
もう絵は描けなかった。「絵心(えごころ)」を喪(うしな)ったコトに気付くのに時間はかからなかった。
『立ち直るのに時間がかかった。立ち直れても、あたしがあたしであるコトを100%取り戻せたワケじゃなかった。『生き甲斐』も『夢』も見失っちゃってたんだもんね。だけど、『新しい生き甲斐』『新しい夢』を探したくて、藻掻(もが)いた』
藻掻いてもなかなか見つけられなかった。そんな時、電車に乗って近くの街まで行き、図書館に足を踏み入れた。
『読書の習慣は無かったし、ほんとに何気なく入館しただけだった。でも、今思えば……図書館が、あたしを手招きしてたのかもしれない』
本と出会い、文学と出会った。
遅まきながら本の中の世界にのめり込み、とりわけ文学作品の中の世界にのめり込んだ。平日の昼間の図書館で読み始めた小説を閉館時間寸前で読み終えた時、文学に目覚めたコトを知った。
神奈川県のよく知られた女子校中等部に通っていたけど、大ケガのショックが尾を引いて学校を休みがちになっていた。欠席する代わりに、出会った図書館に『登校』していたようなモノだった。高等部への進学が難しくなった。思い切って環境を変えたいキモチもあって、とある共学の高校の入学試験を受けるコトに決めた。
× × ×
高校卒業後に地元の某・国立大学法人の教育学部に進学した理由をわたしが訊いたら、
「学校の先生になりたくってさ。特に国語を教えたくって」
とヒカリちゃんは答えた。
でも、
「興味がちょっと移ってきちゃって。文学を研究する方面にね。文学理論に関連する本を読んだりするのが面白かったの。『こういうコトをずっとやり続けられたら幸せかも……』って、ミハイル・バフチンやジェラール・ジュネットの本を読みながら思ったりした」
わたしが、
「ロラン・バルトを読んでる時も?」
と訊くと、
「ロラン・バルトを読んでる時も。」
と彼女は笑顔で答えた。