【愛の◯◯】カッターシャツが危機に陥り

 

キッチンの窓外(そうがい)はほとんど闇になりかかっていた。

愛がまだ帰ってきていないから気になった。教育実習開始後はいつもこの時間帯には帰ってきていたのに今日は違った。『きっと、実習生にも『残業』という概念があって、それで残されてるんだろう』と思うしかなかった。

ホウレンソウを茹でようとして手に取った時だった。

がちゃん! と部屋入り口方面から音。愛がようやく帰宅したのだ。ドアを開ける音がいつもよりも乱暴だったのが気になる。ホウレンソウをいったん俎板(まないた)に留(とど)めておいて愛のいる場所へと向かおうとする。

よろめくようにダイニング・キッチンへと歩み寄ってくる愛は激しく猫背だった。こんなに猫背な愛は久しく見たコトが無い。そんなに激務だったって言うんか……?

おれの横を愛が素通りする。ダイニングテーブルも素通りする。リビングのソファによろよろと助けを求める。

上半身のスーツを脱ぐと同時に倒れ込んでソファの座面に密着する。上半身がカッターシャツになった愛を目の当たりにした途端に不穏な感覚が産まれてくる。今年に入ってから最も消耗しているように見える。おれの脚はソファへと動き出す。

ソファ目前まで来た。愛のカッターシャツはとっても弱々しかった。普段の元気さが微塵も見られない。やはり今日は激務だったのだ。それを認識する。

見下ろしながら「打開策」を考えようとする。しかし「打開策」の検討に集中できない。実習でくたびれた真っ白なカッターシャツが何だか艶(なま)めかしく見えてしまったのだ。真っ白なカッターシャツだけでソファに縋(すが)りつく愛の破壊力に不覚にも脈拍が早まる。見下ろす脚が狼狽(うろた)えによって棒のようになっていってしまう。

 

× × ×

 

どうしたものか……。

愛の左横のソファにとりあえず座ってみる。短くなった栗色の髪の下が背中の中心だ。

真っ白カッターシャツのその部分に右手のひらを置いて、

「実習開始以降でいちばんくたびれてるみたいだが」

と言ってから数秒(すうびょう)間(ま)を作って、

「メシは、食えそうか?」

と問うてみる。

しかしながら愛はソファの座面を頭部でグリグリとするばかりだ。おれの問い掛けに応答する気力すらも失われてるってか。

それにしても体力自慢の愛ですらここまで消耗するとは……。背中をさすってやりながら「消耗の理由」を考える。極度に都合の悪いコトでもあったんではないかと思うとおれの背中が寒くなる。

食事どころでは無くなってきている愛が、

「きんぞくひろう」

といきなり声を出した。

あまりにも弱々しい声だったから『きんぞくひろう』の漢字表記をすぐに把握できない。困りつつも頭を働かせて漢字表記を導き出そうとする。

『勤続疲労

と伝えたかったのを理解するのに相当時間を使ってしまった。

先週の月曜日から愛は教育実習を開始した。土日の休みを挟んで今日が9日目。次第に蓄積されていった疲労が今晩になって爆発した。だから上半身カッターシャツになるコト以外に何もできなくなってしまった。

真っ白カッターシャツが小刻みに震えているように見える。栗色の髪との鮮やかなコントラストだとかを味わっている場合ではない。さすってやっていた右手をいったん停める。救ってやる方法を頭脳から引き出そうとする。しかしながらガンガン伝わってくる疲労感も相まって救済の方策が全く浮かんでこない。

歯ぎしりしながら不甲斐無さを痛感する。パートナーの大ピンチなのだ。それなのに何もできないでいる。無音の部屋。午後8時を過ぎてしまった時刻。おれと愛だけの空間でおれはどんどん追い詰められていく。

コイツの大ピンチを救えなければ寄り添う資格なんて無い。……そう強く思うたびに袋小路(ふくろこうじ)に接近していく。

情けないおれはカッターシャツの背中の中心を再びさすり始めるしか無かった。

『もっと強いスキンシップをしてやるべきなのか!? しかしスキンシップも万能薬というワケでは無いんだし……』

そういう風に惑うおれ、の後方でおれのスマートフォンがバイブレーションを開始する音がした。

慌てて振り向く。慌ててスマートフォンを持ち上げる。

『あすか』

ひらがな3文字の名前。おれの妹の名前。

急いでボタンをフリックしてスマホを右耳に当て、

「どうした?」

とやや早口で問う。

するとスマホの先のあすかは、

『わたし今、池袋の超巨大書店を出たとこなんだけど』

「そ、それがどうしたっ」

『タクシー拾って、そっちのマンションまで行こうと思う』

なんだって!?

「そりゃどーいうこった!? どーいう動機でなんだ!? おまえアポイントメントなんて一切……」

『うるさいよお兄ちゃん』

「あ、あのなあっ」

約5秒の沈黙。

軽い苦笑で軽いため息をついているあすかのイメージが鮮明に浮かんできたかと思うと、

『おねーさんだけどさ』

と自らの「姉貴分」たる愛のコトに触れてきて、

『そろそろ、教育実習の疲労蓄積度が限界に達して、上半身カッターシャツ1枚でソファに倒れ込んでる頃なんじゃないの?』

と現在の状況を100%言い当ててきやがったから……おれの右手からスマホがこぼれ落ちる。