春闌(はるたけなわ)だ。春闌(はるたけなわ)な夕方だ。夕方といっても4時半を過ぎたばかりで本格的な夕暮れはまだ先なんだけどね。5時限目の授業は開始されている。だけど取るべき単位が多くない5年生のわたしはこの時間帯に教場に赴く必要が無い。したがってラウンジで同学年の友達の女の子とお喋(しゃべ)りしている。
お喋りの相手は城(じょう)ミアちゃん。彼女も5年生になっちゃったコトが判明してから結びつきが強くなった。キャンパス内で2人で行動する時間が激増した。同期で寄り添ってくれる娘(こ)が居るから留年の身であっても心細くない。ミアちゃんもきっと同じキモチなんだろう。
お喋りは時にマジメな会話になる。マジメな会話というのは『これからのコト』に関する意見交換だ。これからどうしていくのか。どのような来年の4月以降のビジョンを思い描いていくべきか。お互い留年の身だからなおさら切実だ。
「いよいよ教育実習が迫ってきてるのよ。教育実習に向けて1つ『やらなきゃいけないコト』があって、それは……」
わたしがそうやって『やらなきゃいけないコト』を打ち明けようとしたら、
「その話はゴールデンウィークが明けてからにしよーよ」
「え!? ミアちゃん!? そこまで持ち越し……??」
「持ち越したら不都合?」
「うん……。できればゴールデンウィーク突入前が良くって」
笑みを崩すこと無く眼前(がんぜん)の彼女は、
「だったら4月28日に持ち越し」
「どっどーして4月28日がいいのっ」
訊くんだけど答えてくれない彼女は、
「わたしの方もね、持ち越したくないコトがあって」
「……それは、いつまで?」
「明日まで」
えええっ。
明日まで持ち越したくないコト。ミアちゃんがこれからそのコトを言ってくる。そこはかとない悪寒。身構える。
「わたしが持ち越したくないのはぁ」
余裕いっぱいの表情でミアちゃんは、
「愛ちゃんの、同居人の男性(ヒト)のコト!」
× × ×
晩ごはんは既に食べ終えている。わたしが全部調理した。だけど詰めが甘い料理を作ってしまったかもしれない。味付けが少し投げやりだったかもしれない。
『同居人の男性(ヒト)のコト』を知りたがっていたミアちゃんの顔が蘇(よみがえ)る。ミアちゃんのアツマくんへの好奇心にタジタジになったせいで不甲斐ない晩ごはんをアツマくんに食べさせてしまった。
だからわたしはリビング奥のわたし専用のテーブルで反省会を始めている。両肘(りょうひじ)を卓上(たくじょう)にくっつけて顔の前で両手を揉む。そうしながら夕方のラウンジでのミアちゃんとのやり取りを思い返す。もうちょっとマトモな受け答えができたら良かったのに。彼氏たるアツマくんの◯◯や◯◯を突っつかれて動揺するのはもうイヤだ。冷静な対処法をいい加減に身につけたい。
日記帳を開く。アタマの中だけで反省会してるんじゃダメだ。アウトプットするコトで光明(こうみょう)がさしてくるコトだってある。
日記は昨日の4月23日まで書いていた。国立国会図書館であった出来事を詳細に長大に書き記していた。国立国会図書館に行って何があったのかここで明示するのはやめておく。詳しくは4月23日の日付のブログ記事を参照してください。
当然ながら重要なのは昨日の日記なのではない。今日のコトを反省するのが重要なのだ。といっても昨日以上に長大な日記を書こうとしているワケではない。では何をするのかというと昨日書いた日記の余白にひたすら「単語」や「フレーズ」を書き連ねるのである。「単語」や「フレーズ」というのは明日以降のための「単語」や「フレーズ」だ。例えば『誠実さ』という単語を書いてみる。ミアちゃんにわたしの彼氏のコトを訊かれても誠実に受け答えしてあげましょうというコトだ。それから『日和(ひよ)ったらそこで試合終了だよ』というフレーズも書いてみる。井上雄彦先生に著作権料を払わねばならないかもしれないフレーズを書いたのだがそんなコトはおいといて肝心なのはミアちゃんに対して日和った態度を取りたくないという決意だ。わたしの彼氏のコトを訊かれてヒヨヒヨに日和った応答しかできなくなるのがいちばん最悪。
日記帳の余白が明日以降のための単語やフレーズでどんどん埋まっていく。アウトプットが進行していく。
けれども却(かえ)ってまとまらない。まとまらないというのは考えがまとまらない。アウトプットは拡がるけれど拡散するあまり却って統一感が希薄になってしまう。アツマくんの◯◯や◯◯を訊かれてきた時の『ガイドライン』みたいなモノをできれば作りたい。でもアウトプットが拡がり過ぎたがゆえに日記帳の余白だった所が混沌とし過ぎな状態になってきているから『ガイドライン』作成が夢のまた夢になってしまう。
ペンを置いた。途方に暮れてしまったから置いた。卓上を両手で押さえつけると同時に俯いてしまう。つらい。この状態は混沌かつ混迷だ。
それに加えて背後から聞こえてくる足音のようなモノ。誰の足音であるのかは火を見るよりも明らか。だってこのマンションのお部屋にはわたしとわたしの彼氏の2人しか住んでいないんだもの。
「アツマくん」
俯きながらも明瞭に発声して彼氏の名前を呼んで、
「何度も言ってるわよね。このテーブルで書きモノとかをしてる時は接近してこないでって」
しかしあらためて注意したのに彼氏はヘラヘラと軽薄な声で、
「おれは手持ち無沙汰だし淋しいんだよ。一緒にテレビでも視(み)ないか? そうしてくれたらおれ、ほんとーに嬉しいよ」
手持ち無沙汰なのは理解できるけど『淋しい』だなんて少しも理解できない。
誰がどう考えてもケーハクな彼氏に対するムカムカが急速にピリピリとそしてバチバチと爆(は)ぜていく。
その帰結として、
「……オースティン」
という人物名がわたしの口から漏れてくる。
「オースティン? オースティンって、イギリスの小説家のジェーン・オースティンのコトか?」
「バカじゃないの違うに決まってるでしょっ」
彼氏に本気で呆れたわたしは怒りを示したコトバの2秒後にはテーブル前から腰を上げていて彼氏の方に顔を向けていて、
「横浜DeNAベイスターズのタイラー・オースティンのコトよっ!!」
と叫ぶと同時に日記帳で彼氏の胸を叩きまくりながら、
「あなたにタイラー・オースティンに関する『クイズ』を出したかったのよっ!!」
「クイズぅ?? そりゃまたなんで」
疑問になど構えるわけもなくわたしは、
「オースティンがベイスターズに入団してからいちばん多くホームランを打ったシーズンのホームラン数は何本だった? あなただったら答えられるはずよ!?」
と叫ぶ声を高めながら日記帳による折檻(せっかん)を続ける……。