4限の卒論演習が終わった。
4年生の子たち(男女2名ずつ)が、
『ありがとうございました~~』
と挨拶をして専修室を去る。
さて。わたしも退室しようかな。
4年生の子たちが居なくなって少ししてから、演習出席者の中で唯一5年生のわたしも席を立ち、荷物をまとめて出入り口に向かおうとする。
そんなわたしの背中に、
「羽田」
という呼び掛けの声。
声の主は指導教官の大橋先生だった。
くるり、と振り向くわたしに、
「今日の演習でも、君は出席者の中でいちばん積極的だったが」
と仰(おっしゃ)り、少しだけの間(ま)の後で、
「バランスをとるのも、大事だぞ」
「バランス、ですか」
「そうだ」
着席したまま、背筋が演習中よりもこころなしか伸びている感じのする大橋先生は、
「やる気に溢れてるのは十二分に伝わってくる。だが、卒論だけが君の『やるべきコト』じゃあ無いんだから」
そのコトバを聞いて、わたしはすぐに納得する。
仰る通りだ。教育実習のコトや、教員採用試験のコト。そういう卒業後の進路に関わる大事な課題がある。ひとつだけのコトに熱を入れ過ぎるのではなく、チカラの入れ具合を上手く調節して、偏らないようにしなければならない。
大橋先生は、わたしが留年してしまった理由をご存知だ。メンタルコンディションを崩してしまったのがその理由、なんだけど、今仰ったアドバイスにわたしへの気づかいが籠もっているのをハッキリと感じ取るコトができる。
大橋先生はわたしの父とさほど変わらない年代の男性(ヒト)だから、アドバイスを受けたコトによって、親心のようなモノまで染み込んでいくような感じがあった。それも嬉しかった。素直に嬉しかった。
先生にキチンとカラダを向け、背筋をピン、と伸ばし、
「ありがとうございます。先生のお言葉、ずっとココロに留(とど)めておきます」
と感謝し、お辞儀をする。
× × ×
余談だが、実は、『大橋先生はあまり哲学科教授っぽくは無い』というのがわたしの認識だ。むしろ、大学の教場よりも高校の教室で教えている方が似合っていそうだと思っちゃったりしている。わたしの父とほぼ同年代ではあるが、わたしの父と比べると、なんというか『ぬぼ~っ』という擬音がピッタリなような見た目が際立ってくる。先生に対してあまりにも失礼だからココロの中で思うだけだけど。
それと、わたしの女子校時代のいつもジャージ姿だった数学の先生と大橋先生がかなーり似ているというのも、ここだけのヒミツだ。
× × ×
「おまえの教育実習っていつなんだ?」
夕食の席でアツマくんが訊いてきた。
もちろん、教育実習のスケジュールは頭に叩き込んでいる。しかし、今この段階では彼に打ち明けないと決めている。
敢えて焦(じ)らす。敢えて疑問に取り合わない。
焦らして取り合わない理由。それは、わたしが「イタズラ好き」だから。
答える代わりに、アツマくんのお皿に箸を伸ばす。「イタズラ好き」ゆえの行動だ。
海鮮オイスターソース炒めを横取りした。「お、おいっ!! なんで答えてくれんのだ」と困惑する彼に構わず、海鮮オイスターソース炒めをぱくり、と食べる。我ながら中華風の味付けの塩梅(あんばい)がちょうど良(い)い。自画自賛待った無しのお味だ。性格に難があるオンナなのは最早自覚済みだから、彼氏の分の料理を横取りし、なおかつ自画自賛しながら味わってしまう。
× × ×
食器を全部片付けた。キッチンもピカピカにした。
モスグリーンカラーのエプロンを外しつつ、わたしは、
「ひと足お先に寝室に入るわ」
と、リビングのソファでケーブルテレビの某チャンネルを視聴しているアツマくんに告げる。
アツマくんがこっちを見てきて、
「エッ、早くね」
彼の反応に対してわたしは、
「ほんのちょっぴり早いだけよ」
と言い、寝室入り口ドアへとぺたりぺたりと歩み寄っていく。
× × ×
身を起こしたままダブルベッドの中に両脚を突っ込む。そして、とっくの昔に生産終了している某・携帯型音楽プレーヤーのジャックにイヤホンを接続する。それから、両耳の穴にイヤホンを嵌(は)め込む。
某ジョブズさんのお陰で某プレーヤーの動きに経年劣化は感じられない。
チャットモンチーという解散したバンドの楽曲がほぼ全て収められている。ファーストフルアルバムの『耳鳴り』の第1曲「東京ハチミツオーケストラ」から順に聴いていくコトにする。
ボーカルの橋本絵莉子の歌声が聞こえてくる。ロックバンドとしては珍しく、歌詞がとても聞き取りやすい。
もちろん、チャットモンチーがデビューしたばかりの頃から知っているワケではない。2002年産まれのわたしだから世代が違い過ぎる。後追いだ。
わたしがチャットモンチー後追い世代である一方、わたしの女子校時代の恩師である伊吹(いぶき)先生は、1988年産まれで、リアルタイムで追いかけていた世代だった。
伊吹先生の名前を唐突に出したのはなぜかというと、来たるべき教育実習で赴く学校がわたしの母校たる女子校であり、その学び舎(や)で伊吹先生が待ってくれているから。
彼女はわたしを大事にしてくれていた。愛情を注(そそ)ぎ込んでくれていた。愛情がエスカレート気味になる時もあったから、『えこひいきは良くないと思いますよ?』と生徒であるわたしの方からたしなめる一幕(ひとまく)もあった。
教師として『如何(いかが)なものか……』と感じちゃう部分も正直あったんだけど、そういう部分も魅力的なんだっていうコトを、在校していた頃から強く感じていた。
文字数の都合で詳細には描写できないけど、大ピンチだったわたしを彼女がギューッと抱き締めてくれて、そのスキンシップによって助けられて立ち直ったという出来事が、高等部卒業間際にあった。
わたしは22歳になったけど、実習が始まる時に彼女と再会した瞬間に、あの出来事の時のようにギューッと抱き締めてくれたら、とってもとっても嬉しくなって、あの出来事の時と同じように涙を流してしまうかもしれない。
あるいは、わたしの方から伊吹先生に抱きついていっちゃう……それも「アリ」なのかもね。
『耳鳴り』が全曲再生され、セカンドアルバムの『生命力』の第1曲「親知らず」が耳に響き始めた。
わたしはもう既に掛け布団を抱き締めていた。
時にお姉さんっぽく、時にお母さんっぽくもあった、そんな伊吹先生との思い出が去来して、チャットモンチーの音と響き合っている。