夜。リビングにわたしは居る。この邸(いえ)の中で2番目に大きいリビングだから、仮に「リビングB」としておく。
テーブルに約10冊積まれた『PADDLE(パドル)』を前にしてわたしは溜め息。『PADDLE』は結崎純二(ゆいざき じゅんじ)さんとわたしが学内で作っている雑誌なのだが、新たなる編集協力者を求めているのに、脈がありそうなヒトをなかなか見つけられていないのだ。
わたしは今年度で卒業確定だし、3度目の留年の結崎さんも今年度でたぶん卒業。だから、人材を集めなきゃ、『PADDLE』を刊行し続けるのが困難になってしまう。
カラダを丸く縮めて、どうするべきか……と悩んでいた時だった。
どこからともなく利比古くんが現れてきたのだ。
わたしが座るソファの右斜め前のソファ近くに立って、彼は、
「就活のお悩みですか? あすかさん」
と訊いてくる。
「誤解だよ」
わたしは答えて、就活ではなく何(なに)で悩んでいるのかを説明する。
説明を聴き終えた利比古くんはソファに腰掛けて、
「なるほど」
と言ってくる。
一応は納得してくれたみたいだ。珍しく理解度が高いから、満足して、カラダを丸く縮めるのをやめる。
右サイドの利比古くんは笑顔。
ただの笑顔ではなく、喜び気分が濃厚な笑顔だ。非常にハンサムな彼だからキモい笑顔にはなっていないけど、いったいなぜこんなに喜びを顔面に溢れさせているんだろう?
とても疑問なわたしは、
「なんで利比古くんそんなに幸せそうなの? 『喜々として笑ってる』って表現がぴったりな顔に見えるんだけど」
すると、ハンサムな喜び顔のままに彼は、
「川又さんが就活で忙しくない日に、2人でお花見に行く。――そう約束してるんですよ」
へぇ。
そーなんだ。
彼の応答を受けて、わたしはわたしの目線を彼の笑顔にジットリと注ぐ。彼の笑顔が有頂天の笑顔になるのを防ぎたかったからだ。
わたしは笑顔にならずに利比古くんを凝視する。利比古くんはイケメン笑顔をわたしに対して見せ続ける。
二通(ふたとお)りの『ツッコミ』のコトバをわたしは用意していた。
その1。『デートってはっきり言えばいいのに、なんでデートって言わないの?』
その2。『グズグズしてると、桜があっという間に散ってしまうんじゃないの?』
しかし、ツッコんでいく気にはあまりなれず、わたしは黙ってソファから立ち上がり、テーブルに積んだ『PADDLE』を回収する。
× × ×
川又ほのかちゃんは、わたしの大切なトモダチ。
そして、ほのかちゃんにとって利比古くんは、大切なボーイフレンド。
× × ×
わたしはわたしの部屋に引っ込んだ。回収した『PADDLE』を机の上に置き、床の丸テーブルに用意していた爪切りを取り、その場に腰を下ろす。就寝前に爪を切るコトに決めていたのだ。
足の爪から切り始めるのが習慣だったから、爪切りを足先に近付けた。
右足の爪を切り、左足の爪も切った。
左足の小指の爪まで切り終えた直後のコトだった。
背後のベッド上のスマートフォンからLINEの通知音が鳴り響いたのだ。
爪切りをいったんテーブルに置き、スマートフォンを取り、ロックを解除し、LINE通知を確認する。
ほのかちゃんからだった。
大親友なのだから、ほのかちゃんからLINEが来るのは珍しいコトではない。いつもならば、彼女とのトーク画面を気楽に開くコトができる。
それなのに、
『ドクン』
という心臓の音が確かに聞こえたから、わたしの右人差し指は硬直してしまい、トーク画面を気楽に開くコトができなくなった。
意味が分からない。なんで鳴っちゃうの、わたしの心臓。
約10秒間ためらった後(あと)、わたしがわたしじゃないような手つきで、画面をタップし、トーク画面を開く。
眼に飛び込んできたのは、ほのかちゃんと利比古くんのツーショット写真。
さらには、
『ハラハラさせちゃった時期もあったけど、ここ1ヶ月の彼との関係は、とっても良好だよ』
という文言(もんごん)。
ドッキリした、というレベルじゃ無かった。大文字と太字で強調したいほど『ドックン!!』と心臓が跳ね上がるように音を立て、それからすぐにドクドクドクドクドク……と血管の音が耳と意識に鳴り響き始めた。
際限の無い血管の音の中で、
『ハラハラさせちゃった時期もあったけど、ここ1ヶ月の彼との関係は、とっても良好だよ』
という、彼女のキモチの籠(こ)もった文言を、スマートフォンを固く握り締めながら見つめ続けた。
わたしはわたしが分からなくなった。自分で自分のコトを意味不明だと思い始めた。だって、ドッキリの原因も、『ドックン!!』の原因も、ドクドクドクドクドク……の原因も、全部分かんないんだもん。
制御できないよ。
爪切りどころじゃないよ。手の爪を切れないまま、明日になる。……わたしの内部が暴れたから。ひとりでに、非論理に、暴れ出したから。
もちろん、送信してきたほのかちゃんに悪気は全く無かった。それは大前提。
でも、だからこそ、だからこそ。
『実体の存在しない痛み』をわたしは感じ始め、感じ始めた痛みは次第に増幅し、カラダを蝕(むしば)み、ココロも蝕んでいく。
これまでにないほどの自己嫌悪。
ほのかちゃんと利比古くんのツーショット写真と、ほのかちゃんの幸せそうな文言。この2つに起因する、自己嫌悪。
過剰反応が憎い。わたしはわたしの過剰反応が憎い。
やがて、全部が憎くなる。わたしはわたしの全部が憎くなってしまう。
わたし、わたしなんか、大嫌い。
スマホを一刻も早く投げ飛ばしたくなる。
だけど、
『投げ飛ばしたら、LINEの向こうのほのかちゃんまでも投げ飛ばしちゃうみたいになる……』
と思うと、投げ飛ばせなくて、丸テーブルの爪切りの横にスマホを弱々しく置いてしまう。