夜。リビングの奥の方。わたし専用の小さめのテーブル前に腰を下ろし、わたし専用の日記帳をテーブル上に置く。
『ふたり暮らし』の彼氏には絶対に見せたくないし見られたくもない日記帳を開く。昨日の日付の日記を読み返してみる。あすかちゃんの母校に通っている瑞々(みずみず)しき女子高校生の『オンちゃん』と会った。カフェレストランに行ってお昼ごはんを食べ、その後でお互いの進路の話をした。わたしとオンちゃんのなりたい職業が同じであるコトが判明した。
具体的な「なりたい職業」を開示してもいいのだが、本日の日記を書くのを優先させたい。よって、日記帳の右側のページに今日の日付を記入する。それから、いきなり今日のコトを書き込むのではなく、近所の梅や桜の開花状況をかなり細かく記述していく。これも、日記を書くというプロセスの中での「遊びゴコロ」だ。
某松尾の芭蕉さんが詠(よ)んだ「桜」にまつわる有名な句をもじったヘタな俳句をページの右端に縦書きで記入する。それからいよいよ、本編へと、本日の描写へと入っていく。
ほとんどの記述が、あすかちゃんと会って遊んだコトの描写になる。互いに昼食を済ませてから、護国寺駅の付近で落ち合った。講談社の社屋を横目に見ながら南下(なんか)し、江戸川橋駅付近で新宿方面に折れ、神田川の間近の道を時間をかけてぶらりぶらりと歩いた。神田川の桜並木の状況は、諸般の事情により、この日記帳だけのヒミツにしておく。
神田川沿いのぶらり歩きの最中(さなか)にあすかちゃんの就職戦線の話になった。見通しはすこぶる良(い)いようだ。第一志望がスポーツ新聞社という狭き門だけど、あすかちゃんならば門をくぐって行けるだろう。彼女のお兄さんたるわたしの彼氏の時みたいに苦しくはならなそうで安心。
それにしても、ずいぶんと時は流れたものだ。わたしとあすかちゃん、あのお邸(やしき)で一緒に暮らし始めた時、互いに中学生だったのに。
『今度わたしの邸(いえ)のわたしの部屋でお泊まりしよーね、おねーさん』
わたしの妹分(いもうとぶん)の女の子が別れ際にそう言ってくれた。『おねーさん』とわたしを呼ぶその響きに親しさが籠(こ)もりまくっていた。彼女の歩き姿が見えなくなる寸前までわたしは手を振っていた。
× × ×
別れ際の感動的な描写もバッチリ記した後で、ボールペンを一旦手から離す。わたしの彼氏よりも100倍綺麗な字で書かれた今日の日記に眼を走らせる。満足したから、左手を左の首筋にぴた、とくっつけて、しばしなんにもしない時間を過ごす。
そしてそれから、またボールペンを手にして、2ページを費やした今日の日記の右のページに、
【わたしの満足のためだけのエッセイ】
という文言(もんごん)を書き込み、【エッセイ】のカタカナ4文字の上に傍点(ぼうてん)を施(ほどこ)す。
日記ではない。エッセイっぽいモノを認(したた)めたいキモチを抑えきれなかったのだ。【エッセイ】と書いて傍点までも施したのだから、「主題」は当然ある。「主題」とは何か? ――もうすぐ教育実習に向かう、わたしの母校の女子校のコト。
教育実習で、卒業以来初めて母校の敷地に足を踏み入れる。ずっとガマンしていた。母校近くの喫茶店『メルカド』には何度か寄っていたけど、母校の入り口を見るコトは無かった。自分で自分に約束をしていた。教育実習ができるようになるまで、敷居をまたいではいけないって。
年度がもうすぐ変わる。教育実習が着実に近付く。小学校の遠足の前日みたいに、1週間ぐらい前から寝付きにくくなっちゃうのかもしれない……。そう思うと、苦笑いがこぼれるのを抑え切れなくなる。1週間も寝付きにくくなるなんて、遠足を前日に控えた小学校2年生以下ね。
今晩書く【エッセイ】においては、母校の6年間の思い出を、思いつくままに時系列もさほど気にせず書き記していくつもりだった。
『さあ、【エッセイ】を書いちゃうぞ~~』と意気込んだ、その途端。
都合の悪過ぎる足音が、背後から。
× × ×
「バカじゃないのあなた。息を吸って吐くみたいに『わたしの時間』のジャマをしてくるのね」
「あのなぁー。愛ちゃんよぉ、せめて、背中向けずにこっちを向いて罵倒してくれや」
予定が思い通りにならなくなった。とってもムカムカする。汚くて俗っぽいコトバを使わないのがわたしのポリシーだったけど、背後の彼氏に対して思わず『ウザい』と言いたくなってきてしまう。
掴んでいたボールペンをテーブル上に叩きつける。
背後から、
「文房具を暴力的に取り扱ってはいかん!」
というアツマくんのチャラチャラな声が聞こえてくる。
軽薄過ぎる。軽薄過ぎるわ。
これでも社会人3年目が間近なアツマくん。一刻も早く躾(しつ)けて、矯正(きょうせい)を施さなきゃいけない。
折檻(せっかん)の選択肢が10個以上存在するから、選び取るのに時間がかかる。
迷い始めるわたし。
……その背中に、不穏な感覚が産まれてくる。
なんだか、アツマくんが、立ったままにわたしに向かって前のめりになってくる感じがしたのだ。
「どーして……領域を侵犯(しんぱん)してくるのよ。わたしの時間と空間をジャマするだけじゃなくて、まるで、肩に手を置いたり頭を撫(な)でたりしてこようとするみたいに……!!」
怖くなって言ったら、
「怖かったか? 近付き過ぎだったか。良くなかったな。ゴメンな」
という彼氏の声が返ってきて、彼氏が引き下がる気配もやって来た。
わたしの好きなアツマくんは、なおも、
「最近、おまえの腕とか肩とか、ホグホグほぐしてやる機会が無かったから」
と言い、近付いてきた理由を伝える。
アツマくんのコトが大好きなわたしは嬉しさ混じりに深呼吸する。
それから、
「ホグホグさせてあげるから、もうちょっとだけ待っていて」
と、アツマくんの優しい気配りに耳たぶを熱くさせながら、お願いをする。