「ここは誤訳(ごやく)なんじゃないの、利比古?」
弟の利比古が作成した翻訳文を指差しながら言う。
音楽雑誌『開放弦』に海外の情報を提供するための翻訳アルバイトを利比古は始めた。
とあるUKロックバンドに関連する英文を訳してみた。ちょうどお邸(やしき)に来ていたわたしにチェックを求めてきた。
原文とは違う意味に取って訳してしまっていると思った。だから、『誤訳なんじゃないの』と指摘した。
「そうかなあ」
納得できないご様子で首を傾げるわたしの可愛い弟。
わたしは1つの単語を指し示して、
「ロックバンドに関する文章なのよ? 文脈的に、この単語をこう和訳するのはおかしいわ」
とダメ出しをする。
それからわたしが『正しい』と思う和訳を言ってあげたんだけど、
「……お姉ちゃんって、イギリスに行ったコト無いよね」
と些(いささ)か唐突に言ってきたかと思えば、
「『イギリス英語』の『文脈』に則(のっと)るのなら、やっぱり、ぼくの和訳の方が『正しい』と思うよ」
と……可愛げの無い意見を表明してくる。
利比古の部屋に置かれた丸テーブルを挟んで利比古と向かい合っているわたしは、過剰に前のめり姿勢になってしまって、
「『イギリス英語の文脈』よりも、『UKロックの文脈』を優先すべきでしょう?」
と食い下がるも、
「『UKロックの文脈』ってつまり、『音楽的な文脈』ってコトでしょ? ……たしかに、音楽の知識はお姉ちゃんの方が圧倒的に豊富だよ。でも、ぼくと違ってお姉ちゃんにはイギリス滞在経験が無いのも事実で」
丸テーブルの端を掴んでいるわたしの両手の握力が2段階上昇した。
ちゃぶ台返しみたいに丸テーブルをひっくり返してメチャクチャにしてしまおうとする意図は全く無い。ただ、わたしのカラダでムカムカの度合いが高まっているのは否定できず。
「お姉ちゃんは自分の訳(やく)の方がゼッタイ正しいって信じて疑わないみたいだね」
なにそれ!?
「イギリス滞在経験があるからなんなのよ!? 幾ら帰国子女だからって、自分勝手な解釈で訳しても良(い)いだなんて思ってるワケ!?」
完全に身を乗り出し状態。
『あんたはわたしを怒らせた……!!』
そんな感情が煮えたぎると同時に弟を睨(にら)みつけるけど、
「そんなコト思ってるワケ無いじゃんか!! 自分勝手なのはお姉ちゃんの方なんじゃないの!?」
とギスギスした声で弟が応戦してくるから、わたしは……!!
× × ×
弟のベッドに寝っ転がった。弟に無断で寝っ転がった。
最初はソッポを向いて壁とひたすら向き合っていた。スマートフォンを弄(いじ)りつつソッポを向いていたが、20分経過したところで寝返りを打ち、弟をチラ見した。丸テーブル上の記事原文や自分の訳文に弟は視線を落としていた。視線は原文や訳文に注(そそ)がれているけど、手は動いていなかった。
『ダメじゃないの、凝視してるだけじゃ。自分の訳(やく)の間違いを潔(いさぎよ)く認めて、訳文に手を入れて修正しないと。あんたの右手が動くまで、わたし、ベッドを占領し続けるんだから……!!』
ココロの中でお説教を浴びせながら、現在(いま)はあんまり可愛くない後頭部や背中に尖(とが)った視線を伸ばす。
15分ほど『我慢比べ』をしていたが、丸テーブル上のモノに手を加えようとするコト無く利比古が立ち上がり、お行儀の良くない歩き方で部屋を出てしまった。
取り残された。
寝転び続けるのがイヤになって、身を起こした。ベッドに座ったまま、利比古の本棚に眼を凝らした。
弟の本棚に眼を凝らすのだから、シビアな眼にならない理由は存在しなかった。
呆れるほど貧弱な本棚だった。
まず、並べられている本の数自体が少な過ぎる。ところどころに隙間(スキマ)ができているから哀しくなる。わたしは、この邸(いえ)から現在(いま)のマンションに移る時に、かなりの冊数を、自分が寝起きしていた部屋に残したままにした。利比古の本棚に入っている冊数はわたしが邸(ここ)に残した冊数の5分の1未満だと思う。もちろん、本棚のスケールの大小はあるけど、スケールが小さいからってこのスカスカぶりはあり得ない。
次に、俗悪……とは行かないまでも、俗っぽい本しかほとんど並んでいない。豊富な読書量のおかげで、背表紙を見た瞬間に『俗』なのが分かってしまう。リスクがあり過ぎるから具体的な書名は一切挙げないけど、わたしが数ページ読んで速攻で見捨てた本が弟の本棚の至る所に巣食っていた。
それから、並べ方があまりにも適当。ろくでもない背表紙が並ぶ中にドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を見つけたからホッとした。わたしが愛着のある新潮文庫の原卓也訳だったからさらに安堵した。だけど、上・中・下の全3巻がまとめて並べられていないのは見過ごせるワケが無かった。上・中・下巻がバラバラに収められている。本棚を雑に扱っている証(あかし)だ。
『カラマーゾフの兄弟』を見つけて一旦は安心したわたしだったけど、上・中・下巻をバラバラ状態にしている無神経さへのムカつきがどんどん高まり、ついにはベッドから立ち上がって本棚に近付き、弟非公認の整理整頓に着手し始めた。
× × ×
「ぼくの本棚がそんなに気になるの?」
戻ってきたと同時に利比古が訊いてきた。訊く声がさっきよりもずいぶん柔らかくなっていたから、少なからずドキッとしてしまう。
軽く深呼吸し、ココロを整えて、
「気になるのは当たり前よ。気になり過ぎたから、中身を整理整頓してあげた」
と答える。
『勝手に何をやってるの』と言われちゃうのが心配だったけど、
「それは、『ありがとう』だな」
と、素直な感謝を弟が与えてくれるから、心配が消え去り、胸の奥から暖かいキモチが湧き出てくる。
「ちょうど『整頓しなきゃなあ』って思ってたんだ。助かる」
そう言って、最愛の弟はわたしに近付く。わたしは最愛の弟を即座に見上げる。
「お姉ちゃんに任せておけば、間違い無いから。ぼくがぼくの手で整頓するより、100倍ベターだ」
照れくさい気分になりながらも、利比古のキレイでしかも愛らしい眼に眼を合わせてあげて、
「100倍ベターなら、『ベスト』って言う方が、ふさわしいでしょ」
と告げ、それから全力で微笑んであげる。
「あのさ」
と、利比古は腰を下ろしてくれながら、
「いろいろ、ゴメン。張る必要の無い意地まで張っちゃって」
と謝ってくれる。
すごい速さで幸福感がやって来て、わたしの全部を満たす。
幸福感に満たされ過ぎて、謝り返すのも忘れて、
「現在(いま)の利比古、世界でいちばんステキな弟」
とホメちぎり、抱き締めるコトのできる近さまで近付いていく。
「なにかな、それ」
ハニカミの混じった笑みで利比古が言うから、溺愛ぶりを示してあげる意欲が最高潮になる。
「ブラコンぶりが極まりそうな時のお姉ちゃんだ」
そうコメントする最愛の中の最愛の弟に、
「そんな略し方は下品でしょ。『ブラザー・コンプレックス』ってちゃんと言いなさいよ」
と、熱っぽくなるのを止められるワケも無い顔で、ダメ出しする。