お布団の柔らかさにいつまでも甘えているワケにはいかなかった。目覚まし時計が鳴ってからすぐにベッドから抜け出した。
カーテンを開け、朝の光でカラダを目覚めさせ、勉強机に歩み寄る。椅子に座り、勉強机の端っこに置いていた鏡を手元に引き寄せる。
ベッドから抜け出した直後に手に取っていたブラシを髪に当てる。わたしはこれから短くとも30分以上は髪を梳(と)かし続けるだろう。長い間ショートだった髪がほとんどロングになったからだけではない。自分の髪には自分で責任を持ちたかったからだ。
癖(クセ)っ毛(け)を1つも残したくなかった。完璧に整えたかった。髪の手入れに甘さが残っているのが気持ち悪かった。自分の髪ぐらい自分で何とかしたい。『だってわたしもうすぐ高校卒業なんだよ。とっくにコドモじゃないんだよ』。髪を梳かしていた時にこういうココロのコトバが自分自身に響いた朝もあった。
× × ×
「小麦(こむぎ)、コーヒー飲まない? 頭が冴えるよ」
朝ごはんのダイニングテーブルの席についた途端にお母さんが言ってきた。
昨日も一昨日もお母さんは朝のコーヒーを勧めてきた。でも、どちらかというとコーヒーは苦手だったから、2日連続で断っていた。
でも、今日は、
「うん、飲む。ミルク多めで」
と、お母さんの勧めに従った。
なぜ従ったのか。3日連続で断るのはお母さんに悪いから……これは、大きな理由としてある。だけど、それだけじゃない。他には、『2月になってからいちばん髪の手入れに時間がかかって疲れたから』とか。その他にも、『もうコドモじゃないのを家族に示したかったから』とか……。
× × ×
「詰めが甘いんじゃん。ミルク多めだったから、『コドモじゃないのを示したかった』のに、コドモじみた飲み方になっちゃってた」
ベッドに腰掛け、嘆くようにヒトリゴトを言う。
いつまでもクヨクヨしていたくはなかった。だからベッドからバッ、と立ち上がる。部屋の隅の方に積んでいた教科書や参考書や問題集の類(たぐい)を何とかしたい。山積み状態の教科書たちに近寄り、担(かつ)ぎ上げる。勉強机の上にどすん、と置き、眼を凝らして仕分けを始める。
不思議と、国語の教科書だったりとか、文系科目の本の方が捨て切れなかった。自他ともに認める理系少女だったのに。むしろ数学や物理や化学の方を断捨離(だんしゃり)したくなる。理系科目関連書籍をまとめ、積み上げ、ベッドの上に移した。
理系科目を取り除いたから、勉強机に残っているのは文系科目だけ。世界史の教科書に今度は眼が留まる。かつて世界史を授業で小泉先生に習っていた。小泉先生。わたしの部活の顧問でもある。まだ2年間しか勤めていない20代前半のフレッシュな女性教師。部のみんなが面と向かって口に出すことは無かったけど、スラリとしたカラダでスタイルが良い。彼女、なんだか、自分のカラダが『抜群(バツグン)』と言っていいほどスタイルが良いのに無自覚っぽくって……。
脱線しちゃった。
世界史の教科書を見て、小泉先生のことを次々と連想しちゃった。ダメだな、わたし。
あることないこと思っちゃって、ごめんなさい、小泉先生。
そして、ありがとう……小泉先生。
× × ×
超得意だったはずの数学で『つまずき』を経験してしまった去年の秋のわたしは荒れに荒れていて、最低最悪なことに、放送部ルームで小泉先生に対しキレてしまった。
反省する気も無いぐらい荒れまくっていた。荒れまくった後で、沈み込んだ。年が明けてからも全然浮上できなかった。ぶっちゃけて言えば、現在(イマ)でも完全に浮上できているワケではない。
ご近所さんで同じ学校で同じ放送部所属の鈴木卯月(すずき うづき)ちゃんが、わたしを心配して、最近になって再三中嶋家(なかじまけ)を訪ねて来ている。
『卒業までに、小泉先生にちゃんと向き合って、ちゃんと謝るべきだと思います。そうしないと、永遠に謝るコトができなくなって、小麦さんは後悔をいつまでも引きずっちゃう』
そう説得された時があった。
卯月ちゃんの説得を素直に受け容(い)れて、既に自由登校期間になっていたけど、2月に入ってからの某日(ぼうじつ)、小泉先生に謝るために学校に赴いた。
職員室に踏み込むのに少し勇気が必要だったけど、ちゃんと小泉先生の眼を見ることができて、ちゃんと謝罪のコトバを言うことができた。『ごめんなさいでした』って、コドモじみた謝罪のコトバになっちゃったけど。
小泉先生は感極まっていた。眼から涙が出てこないかドキドキしてしまうぐらいの感極まりだった。
そんな小泉先生の感動も嬉しくって、卒業するまでに謝ることのできた気持ち良さも相まって、とっても満ち足りたキモチで校舎の廊下を歩いていた。
階段のすぐ眼の前に来た時だった。
階段を上がってくる男子がいた。
上がってくるのはクラスメイトの男子だった。
去年の11月にギスギスするまで、よく喋っていた男子だった。
「中嶋(なかじま)」
巻林英雄(まきばやし ひでお)という名前だったけど、ほとんどのクラスメイトは『マッキー』としか呼ばない。
マッキーが数ヶ月ぶりにわたしの苗字を呼んできたのだ。真っ正面から呼んできたから、わたしは自然に後ずさってしまった。
「おはよう」
マッキーのあいさつの声には少しの濁りも無かった。
たじろいで、視線があちこちに動いたけど、立ちすくみつつも、マッキーに応(こた)えたいキモチがゆっくりと膨らんできて、わたしは大げさに息を吸ってから、
「おはようっ」
と、あいさつを返したのだった。
× × ×
マッキー。
マッキー……か。