朝食の時のコトだった。あすかさんと2人で朝ご飯を食べていて、彼女はぼくの席から見て左斜め前の席だったのだが、彼女がいきなり音を立てて箸(はし)を置いたかと思うと、ダイニング・キッチンの入り口付近にあるステレオコンポに突き進んで行った。
彼女がCDをコンポにセットして、再生を始めた。スピッツの初期アルバムの『名前をつけてやる』だった。
明日美子さんからぼくが借りたCDだったのに、昨晩あすかさんに強奪されてしまった。……そういった経緯(いきさつ)のアルバムがダイニング・キッチンに響き渡り始める。
「どうしていきなり音楽を流そうと思ったんですか。しかも、ぼくから強奪したアルバム……」
あすかさんは遮(さえぎ)って、
「強奪だとか言わないでよ。元はお母さんの所有物なんだから」
と言い、左腕で頬杖をつき、ぼくの顔を見てくれない。
× × ×
大学に入ってから2度目の下半期長期休暇なのだ。人生で最も羽根を伸ばせる期間の1つと言ってもいい。
けれども、羽根を伸ばし過ぎるのも如何(いかが)なものかと思ったので、アルバイトを始めることにした。(昨日の記事を読んだ方はもうご存知であるが)『開放弦』という音楽雑誌の編集に関わる仕事内容で、具体的には海外からやって来る文献の翻訳に従事するのである。帰国子女で良かった。
文献翻訳を早速開始するべきなのだろうが、ウォーミングアップとして英語版ウィキペディアの記事を読むことに打ち込んでいる。『英語版ウィキペディア読むのがバイトのウォーミングアップだとか、あんた頭悪くないか!?』といったようなクレームは、受け付けますが、流します。
――さて、スピッツの『名前をつけてやる』が鳴り響く中で朝ご飯を食べ終えたぼくは、邸(いえ)の中でいちばん広いリビングのソファにて『ウォーミングアップ』としての英語版ウィキペディア読みに没頭している。時刻は午前9時45分。
周知の方も少なくないと思うが、海外のミュージシャンに関しては日本語版ウィキペディアよりも英語版ウィキペディアなどの方が遥かに情報が充実している。日本語版ウィキペディアが貧弱だと言ってしまう方が適切かもしれない。
日本語版ウィキペディアに項目の無い某・ロックバンドの項目に眼を通していた。
タブレット画面をスクロールする指が止まった。
スーツ姿の身長155センチの女子がリビングの脇を通り過ぎようとしていたのだ。
「……あすかさん? どうしたんですか? いきなりそんなフォーマルな格好になって」
気になったので、声を掛けてみる。
フォーマルなあすかさんの脚がピタ、と止まった。それから、フォーマルな彼女はなぜかぼくの反対方向に顔を逸らした。それからなぜか約15秒間に渡ってぼくの反対側を見続け、そしてそれから視線を元に戻したものの、左人差し指でほっぺたをポリポリ掻きながら、横目で何度かぼくをチラ見した。なんだか動きが不自然だ。
「あの~。そんなにフォーマルな格好になった理由が知りたいんですけど」
促すぼく、だったのだが、
「利比古くんって鬱陶(うっとう)しいぐらい『ドンカン』なんだね」
という声が返ってくる。
「『ドンカン』?」
訊き返すぼくに、
「幾らなんでも鈍(ニブ)過ぎるでしょっ」
という彼女の不満が飛んでくる。
ついに彼女は彼女のカラダをぼくの方に向け、
「就職活動シーズンが始まるんだよっ!!」
あ。
なるほど。
スーツってそういうコトだったんですね、あすかさん。
「すみませんでした、呆れるくらい鈍感で。要するにあすかさんは就活関連のイベントに出掛けるトコロだったんですね」
「分かってくれてありがとう」
全然嬉しそうな表情ではないけど彼女は感謝してくれた。
さらに、
「利比古くんもようやくバイト始めるし、わたしもより一層積極的になろうと思って」
と言ってくれる。
ぼくは本音で、
「あすかさんは真面目ですよね。ぼくよりも真面目だし、ぼくの姉なんかよりも3段階ぐらい真面目だ」
と言ってあげる。
が、彼女はやや苦い顔になって、
「おねーさんの不真面目さを強調しなくても良(い)いじゃん……。『3段階』とかそーゆー表現は不適切」
彼女の『たしなめ』に対してぼくは、
「相変わらずの『姉リスペクト』ですね。さすがのリスペクトぶりだ。本当にあすかさんは姉のコトがダイスキですよねえ」
というコトバを返す。
どこまでもぼくの姉を崇拝するあすかさんは、
「……間の抜けた声でそんなコト言わないで。イケメンが台無しになっちゃうじゃん」
とまた『たしなめ』のコトバを発してくる。
なぜか、『たしなめ』と連動するかのように彼女のほっぺたが赤い色を帯びていた。
どうしてだろう?