【愛の◯◯】国見八潮の距離感

 

小麦ちゃんのお気に入りの椅子がポッカリ空いている。小麦ちゃんは今日放送部室に来ていないのだ。誰も座らないポッカリ空いた椅子が、近頃の小麦ちゃんの異変を象徴しているような気がしてくる。

「素子。小麦ちゃんから連絡は?」

わたしは訊く。

「なんにも」

素子は答える。

それから素子は腕を組んで、

「無断欠席ね。3年生だし、ほとんど引退してるみたいな立場なんだから、ここに来るのは自由ではあるんだけど。そうであっても、この部屋に常駐してた小麦にいきなり無断欠席されると、なんだか変な気分になっちゃう」

そしてそれから素子は腕組みを解き、顧問の小泉先生に眼を向けて、

「先生には何か、小麦の方からは……」

小泉先生は首を振って、

「何も知らされてないんだ、わたしも。この前、これまでに見たことが無いほどイライラピリピリしてたから、気にしてたんだけど……」

ここでわたしは、小麦ちゃんお気に入りだった空席の椅子を見つめて、

「受験ストレスなのかしら、やっぱり」

小泉先生は、

「それは絶対にあるよね。わたし数学の先生から聞いちゃったの、小麦さんの数学の成績が下降気味だって」

素子が、

「いちばんの得意科目だったはずの数学の成績が下降……か。それはちょっと苦しいかもしれないわね」

小麦ちゃんに同情する。

それから素子は卯月ちゃんに眼を転じて、

「卯月ちゃんは、小麦と一緒に登校してる?」

小麦ちゃんのご近所さんの卯月ちゃんは、

「2日に1回ぐらいのペースになってますね。一緒に登校しない時は、どうも私よりかなり早く登校してるみたいで。朝、小麦さんの家を訪ねたら、『もう家を出ちゃった』とご家族に知らされたこともあって」

わたしは、素子に眼を向けながら、

「あの子ってそんなに早起きできたかしら?」

素子は、

「たぶん早起きは得意じゃないはずよね……。明らかに寝坊の方が多そうなのに。早起きな小麦なんて、小麦が小麦じゃないみたい」

 

× × ×

 

その場に居た面々で小麦ちゃん問題への「対策」を練ろうとしたけど、実りは少なかった。

 

あっという間に17時が過ぎた。もう既に放送部室は出ている。校舎の外まで歩いていこうとしている。

使われていない教室が多い場所を歩いていた。人気(ひとけ)も無いしヒンヤリとしている。

この場所を通るのを選択したのを少し後悔しながら、出口に向けて廊下を進んでいた。

出口にかなり近い所まで来た時だった。約7、8メートル前方に男子生徒の姿が現れた。そしてその男子生徒はわたしの顔馴染み男子だった。

国見八潮(くにみ やしお)。クラスメイト。元・柔道部。

『国見。奇遇ね』とこちらから声をかけてあげようとした。

でも国見は、わたし目がけてズンズン突き進んできたかと思えば、

「万都(まつ)。中嶋(なかじま)小麦は、おまえの部活だったよな?」

あちらから先に話しかけてきたことと、いきなり小麦ちゃんに言及してきたことの両方に驚き、たじろいで少し後(あと)ずさってしまう。

「……そうよ。小麦ちゃんは、放送部。でもそれがどうかしたの。国見はあまりあの子と親しくなかったでしょ」

「あのな」

予想外の真剣さでもって国見はわたしを見据えて、

「中嶋小麦が、自習室に入っていった。おれは目撃したんだよ、放課後になってすぐの頃に自習室付近を歩いてたら。たしかに中嶋のことよくは知らないが、自習室に率先して入っていくようなキャラではないのは知っていた。だから、あの光景を見て、ギョッとするぐらい驚いたんだ」

わたしだって驚く。すっごく驚く。驚きが2時間以上は持続するぐらいビックリする。

言うまでもなく、わたしは3年間放送部で小麦ちゃんを見てきたのだ。衝撃が背筋を走る。驚きが持続するのが2時間どころでは無くなってきそう。目眩(めまい)までは行かないけれど、ココロが揺れながらとぐろを巻いているのを自覚する。

「あの子が……自分から自習室に……だなんて。明日の最高気温が30度になってもおかしくないわ」

うろたえながら言うわたしに、

「絶対に何かあったよな? 中嶋を自習室へと向かわせるキッカケになった事件だとか。万都、中嶋と近しいおまえなら、思い当たることがあるんじゃないのか……」

国見は急速に距離を詰めてきている。1年時からの馴染みの男子であるといっても、今のような勢いで迫られると、たじろぎの度合いが上昇してしまう。

背筋を冷やしながらも、わたしは国見に懸命に食い下がるように、

「ど、どーして、小麦ちゃんのことを、国見がそんなに気にするのかしら? もしかして……もしかしたら……」

「アホか。変なこと考えんな、万都。あいつのことはよく知らんとさっき言っただろが」

まともに眼を合わせてくる国見。視線が、ググググッ……と食い込むように。

「おれの中嶋への感情を詮索して、うがった見方をするなんて。おまえらしくもない短絡的な思考と行動だな」

「じゃ、じゃあ、だったら、どうしてわたしに目撃談を伝えてきたのよ」

苦し紛れにわたしが言うと、国見は目線を斜め下に傾け、微妙過ぎる長さの沈黙のあとで、

「……いろいろだよ」

と、あまりチカラの籠もっていない声で、答えた。