ミキサーの横で紅葉(もみじ)先輩とモネ先輩がパイプ椅子に座り向かい合って話している。ふたりとも『引退宣言』をしたはずなのに。いわゆる『偉大なるOG』的存在になってゆくのだろうか。卒業した後まで居座らないでくださいね。
木椅子に座っているわたしの所からモネ先輩の長い脚のつま先が見える。わたしより脚長だから溜め息をつく。会話に夢中でモネ先輩は絶対に溜め息に気付いていない。
どんなお題で話し込んでいるかというと、『KHK紅白歌合戦』について。KHK(桐原放送協会)は我が放送部から独立したクラブ活動でだいたい5年ぐらいの歴史がある。今学期末に挙行されることになっている『KHK紅白歌合戦』は実は『第2回』で、何故かと言うに一昨年のやはり2学期末に『第1回』が既に行われているから。羽田利比古(はねだ としひこ)さんというハンサムで有名だった男子生徒が企画して実行したそうである。わたしは羽田利比古さんと面識がないけど、どれだけハンサムだったのだろうか。桐原高校始まって以来のモテ男だったとかいう説が流布している。まあ卒業生のルックス云々はともかくとして、まだ1年生のKHK会員ふたりは羽田利比古さんからバトンを渡されたわけだ。
タカムラかなえちゃんとトヨサキ三太(さんた)くん。KHKの1年生ふたりの中で積極性があるのはタカムラかなえちゃんの方で、『第2回KHK紅白歌合戦』も彼女が『やりたい』と言い出したらしい。なんだか昔『紅白歌合戦をやるのは『宿願』だったんです』とかわたしたち放送部員に向けて打ち明けていたような気がする。
紅葉先輩とモネ先輩の駄弁(ダベ)りはタカムラかなえちゃんの頑張りに及んでいた。
「ビラがあちこちに掲示されてるよね」と紅葉先輩。
「わたし見たよ、タカムラちゃんがビラ貼ってるとこ」とモネ先輩。
「モネも手伝ったら良かったんじゃん」
「わたしは暖かく見守るだけ。部活動を引退した身なんだから」
あのー、モネ先輩。『引退した身』と言う割りには、放送部室に常駐してるみたいになってますよね? 紅葉先輩もですけど。
「タカムラちゃんは健気だね」
モネ先輩は続ける。
「1年生でまだ右も左も分かんないだろうに、いろんな所に行って交渉とかをしてる。例えば軽音部の3年男子4人のバンドに『出演依頼』をしたり。結構いかつい男子が寄り合って活動してるバンドなんだけど、彼女は臆することもなく」
それからモネ先輩は紅葉先輩に流し目を送って、
「紅葉も知ってるでしょ? 『ハングリーホーク』。ダサい名前の3年男子ども4人のロックバンド」
首肯しながら、「もちろん知ってる」と紅葉先輩は答える。
「出演決定らしいよ。タカムラちゃんの頑張りと勇気が、ヤツらのココロを動かしたみたい」
そう言ってからモネ先輩はミキサーに右肘を突いて頬杖し、
「わたしが1年生だった時、あんなに行動力無かったな」
と言い、
「偉いよ、タカムラちゃんは」
と、ややセンチメンタルな表情になって言う。
なかなか見られないモネ先輩の表情に見入ってしまっていたら、
「菊乃(きくの)はヒマなの?」
という問いをモネ先輩が投げかけてきた。
モネ先輩の問いをわたしはきっちりとキャッチして、
「正直ヒマですね。一応副部長ってことになってるけど、部長のくるみは全然仕事を与えてくれないし」
「この時期はあまり忙しくないからねえ」
と言ったかと思うとモネ先輩は、
「菊乃。KHKの方に『出張』してみたら?」
「えっ、旧校舎の【第2放送室】に行って来なさいってことですか」
「だって、何よりあんたは手持ち無沙汰でしょ。今度の『紅白歌合戦』には放送部も協力してあげるのが既に確定してるんだし。くるみと並んであんたは現在の放送部の『主軸』なんだから、来てくれたらタカムラちゃんもトヨサキくんも喜ぶと思うよ。『菊乃先輩が来てくれて助かる』って思うはず」
確かに。放送部室に引きこもっているよりは、ずっとベターだ。わたし不在の部室で居残り続けるであろう3年生コンビの振る舞いがちょっと心配だけど。
「わたしもモネと同意見」
紅葉先輩が同調し、
「今よりもっと心強い『先輩』になってあげるべきだよ、菊乃は」
素直に、
「それもそうですね」
と、木椅子からわたしは立ち上がり、
「わたしが居なくなるからって、現役部員に変なこと吹き込まないでくださいね」
と忘れずに釘を差しておく。
× × ×
旧校舎の廊下は暗くてヒンヤリとしている。静けさが11月末の冷たさを際立たせる。
重ね着しておけば良かったと反省しつつも、階段を上がって2階の【第2放送室】へと突き進む。
『KHK 桐原放送協会』と何故か縦書きの筆文字でクラブ名を示した紙が入り口ドアの真横に貼られている。
わたしは緊張することもなくドアを2回ノックする。タカムラかなえちゃんの明るい応答がドアに嵌(は)められたガラスに響いた。
ドアノブをひねって入ってみると、木造りの机の上でかなえちゃんが一生懸命ノートを作っていた。受験期の3年生よりもずっと一生懸命にノートへの書き込みを続けている。
1年生コンビの片割れのトヨサキくんはスタジオに入っていて、1990年代に製造されたと思われる小型テレビで映像を視ている。
「頑張ってるね、かなえちゃん。何か差し入れを持ってきた方が良かったかな」
「菊乃先輩のそのキモチが、『差し入れ』です!!」
「アハハ。巧いこと言うね」
本当にしっかりしてるな、この子は……と感じながら、
「トヨサキくんがテレビに張り付いてるけど、いったい何を視てるの?」
「それはもうNHK紅白歌合戦ですよ。『KHK』じゃなくて『NHK』の。本家本元です」
「ふぅん……」と呟きながらスタジオを見る。トヨサキくんの張り付いている小型テレビの画面に眼を凝らす。安室奈美恵らしき人が歌っていた。
「あれ、何年の紅白なの?」
かなえちゃんに問えば、
「1997年ですね」
「ひゃあ、在校生が産まれる遥か前だ」
「生徒どころか、まだ産まれてない先生だって居ますよね。……あのですね、98年の紅白じゃなくて、97年の紅白というのがポイントなんですけど」
「97年は98年とはどう違うの?」
「安室奈美恵さんが『トリ』なのは97年なんです。復帰直後の98年は『トリ』じゃないんです」
「んーっと……。ごめんけど、もう少し分かりやすく」
「あーっ。そうですよね、分かりにくかったですよね」
97年と98年の安室奈美恵について、かなえちゃんは詳しく説明してくれた。
「……和田アキ子が、98年の時は、安室ちゃんの後の『トリ』で良い仕事をしましたよ、と」
「視聴率も98年は高かったですからね」
詳しいなあ。
「だけど、トリを取ったのは休養前の97年の方で」
わたしはそう言いながら、トヨサキくんが前のめりになっている小型テレビを見つめて、
「CAN YOU CELEBRATEかぁ。どんな意味なんだっけ、日本語にすると」
「それは小室哲哉さんだけが知ってるんですよ」
「小室ファミリーってやつ? わたしよく知らないけど」
「わたしの方が菊乃先輩より詳しいみたいですねえ」
わたしは苦笑して、
「仕方ないじゃん。90年代が全盛期だったんでしょ、それぐらいの情報しか持ち合わせてないけど」
「当時、小室ファミリーの中でも、安室奈美恵さんはやっぱり際立った存在で。『アイドル』とも言える存在だったし、『アムラー』っていう流行語も産まれて。あの頃のJ-POPの『主人公』だったんじゃないかな、彼女は」
「まるでタイムマシンに乗って当時を見てきたみたいじゃん」
「よくわかりましたね。わたしの部屋の勉強机の引き出し、開けてみたいですか?」
「完全にドラえもんな冗談だね」
「はい。ドラえもん的ジョークです」
わたしとかなえちゃんは微笑みを見せ合う。
スタジオから椅子を引く音がした。97年紅白の映像が終わったらしい。トヨサキくんがずんずんスタジオのドアに近付く。
勢いよくドアをオープンした後で、
「なんとか観終わったぞ、97年の紅白」
と、かなえちゃんに告げるトヨサキくん。
「だったら、今ここで感想を言ってよ。できれば30分以上」
「ハァ!? タカムラおまえ正気か」
「正気だよ! 長時間の番組の映像だったんだから、いろいろ感じたことがあるはずでしょ!? 30分感想言えないなんて、キミは今まで何をやってきたのかって話だよ」
「む、ムカつかせやがって」
トヨサキくんは右拳をグリグリ握っちゃっている。
「今ここで感想言えないのなら、宿題。明日までに感想文を原稿用紙30枚」
「ば、バカじゃないのか、30枚だとか……」
「うん、わたしがバカだった。30枚は、ほんの冗談」
腕組みして、ドヤアッと笑いながら、
「だけど感想文は書かせるよ。もし書けなかったのなら、罰ゲーム」
「……腕立て伏せ30回とか言いやがらないだろうな」
「そんなの罰ゲームの域に達しないじゃん」
「タカムラ!?」
トヨサキくんから笑ったまま顔を逸らし、右人差し指を立てたかと思うと口に当て、かなえちゃんは思惑を滲(にじ)ませていく。
きっと罰ゲームをあれこれ考えているんだろう。
強いなあ。
わたしは、トヨサキくんの方にそっと眼を向ける。
視線を暖かく当てて、
『勝ちたい、ってキモチでかなえちゃんに接しなきゃダメだよ。負けん気のある方でしょ、トヨサキくんは?』
というメッセージを、声に出さずに送り届ける。