小麦さんの様子が変だ。いつもと違う。何だかイライラしているみたい。天真爛漫で自由奔放な高校3年生の女の子のはずなのに。
放送部室の壁を睨みつけている。他の誰かに話しかけようともしない。左腕で頬杖をつき、険しい表情。時たま、右人差し指で机を連打する。
どうしちゃったんだろう。
顧問のわたしは彼女の背後に歩み寄る。彼女の背中を見下ろしながら、どうやってキモチをほぐしていくべきか考える。声掛けは大事だと思う。声掛けして、彼女がどんな反応を示すか。その反応への対応も重要なんだけど……。
考えていたら、
「小泉先生、わたしの後ろに回らないでくださいっ」
と、小麦さんからの先制パンチを食らってしまう。
声を掛ける前に反発された。放送部室に緊張が走る。
とってもトゲトゲしい雰囲気を小麦さんは醸し出している。ベテランの先生ならば生徒のこういう変化への対処も慣れているんだろうけど、わたしはまだ教師生活2年目に過ぎなくて……。右も左もわからない。小麦さんに刺さったトゲの抜き方もわからない。
でも、諦めてはいけないと思って、小麦さんの後ろ側から横側へと立つ場所を移してみる。彼女から見て左横に立つ。左腕で頬杖をつき通しの彼女は依然ビリビリピリピリとしている。時折、殺気立った眼でわたしの方をチラ見する。
「あのね」
そこはかとない寒気(さむけ)を覚えながらも、わたしは彼女に話しかける。
「小麦さん、何かイヤなことでもあったんじゃないの?」
探りを入れるが、
「ありません」
と即座に言われてしまう。
「……無かったのなら、なんでそんなに、怒ったみたいになってるのかな」
わたしがそう言った途端に、彼女が右拳で机を軽く叩いた。室内の緊張感が1.5倍になる。
追い詰められながらも、踏ん張りたくて、
「理由を言ってほしいよ。みんな小麦さんのことを心配してるんだし」
小麦さんはツンツンと、
「『みんな』って、誰と誰と誰と誰なんですかっ」
部長の尾石さんが、見かねたのか、
「小麦!! 先生にとる態度じゃないでしょっ!? 失礼よ」
と怒る。
しかし、小麦さんは右拳で机を強く叩き、怒りに対し怒りで応戦しようとする。
ついに立ち上がる。椅子の動く音が響く。
「あーっもう!!! ほっといてよ!!! かまわないでよ!!!」
彼女のこんな怒鳴り声を聞くのは、もちろん初めて。
部屋の外の廊下まで絶対に響いている、大きな怒鳴り声……。
× × ×
下校時刻間際。職員室の自分の席でコーヒーを飲みながら、小麦さんの異変について考えている。
小麦さんが放送部ルームから逃げ出した後で、わたし・尾石さん・卯月さんの3人で緊急会議を開いた。
小麦さんのご近所さんである卯月さんは、異変の理由をそれとなく察知しているみたいで、
『たぶん、受験が近付いてるからなんだと思います。この前の模擬試験で、得意科目のはずの数学の点数がイマイチだったみたいで……。強いプレッシャーを感じてしまってるんではないかと』
と話してくれた。
『だからって、周りに当たり散らすなんて論外でしょ。あたしだったら、そういうストレスを撒き散らしたりはしない』
尾石さんは小麦さんに対し辛口で、
『プレッシャーを感じてるのは自分だけじゃないってことが、小麦には分かってないのね。どうにかして、分からせなきゃ……』
わたしはその時、尾石さんに、
『尾石さんは小麦さん想いなんだね。『分からせなきゃ』って言うのも、どうしても放っておけないってキモチがあるからなんでしょ?』
と言ってあげた。
尾石さんはすぐに赤面して、わたしの顔も卯月さんの顔も上手に見れなくなった。
受験、か。
大学受験期に荒れたことなんて、わたしには無かった。落ち着いて受験勉強できていたし、模試の成績が伸び悩んだり一気に落ち込んだりすることもなかった。家族の前でも友人の前でも、取り乱したことなんて一度もなかった。
……わたし、『例外』だったのかな。
悩みを抱えている子は、たくさん居て。
悩みは抱えていなくても、プレッシャーや焦りを感じない子なんて、ほとんど居ないんだろう。
ごめんね、小麦さん。
小麦さんのキモチ、ぜんぜん理解できてなかった。もっと小麦さんの立場になって考えてみるよ。
また傷つけちゃうかもしれないけど……。わたし、小麦さんを『このまま』にしておきたくない。
大切な教え子なんだから。
× × ×
今日の仕事を全部終えて下校しようとしていた時のことだった。
階段へと続く廊下を歩いてたら、窓の外の光景に眼が留まった。
よく眺めてみると、女子生徒と男子生徒が向かい合ってコトバを交わし続けているような情景だった。
女子生徒を見て、ドッキリとしてしまった。
中嶋小麦(なかじま こむぎ)さんで間違いがなかった。紛れもなく放送部の小麦さんだった。先ほど放送部ルームでキレ散らかしていた、小麦さんだった。イライラしていて自分が自分でなくなっているような状態の、わたしの大切な教え子の女の子だった。
相手の男子生徒は巻林英雄(まきばやし ひでお)くんで間違いない。3年3組。小麦さんのクラスメイト。『マッキー』というニックネームが浸透している子。
2人に向かってわたしの視線が釘付けになる。
そしてそれから、震える声が、自然と、わたしの喉から溢れ出てくる。
「なんで口論になってるの……。言い合い、終わりそうにないじゃないの。小麦さんも巻林くんも、すっごく怒ってるし……」