上野公園の秋風が少し冷たい。でも、着込んでいるから耐えられる。
大井町さんが右隣に接近してきて、腕時計を見ながら、
「16時にもなってないわね。『17時から国立西洋美術館』って決めてたけど、まだ時間があるわ。どうしよう、新田くん? カフェで時間潰す?」
いきなり接近されたから焦ったが、俺にも『プラン』があったので、
「カフェよりも行きたい場所があるんだけど」
大井町さんは依然至近距離のまま、
「それ、どこ?」
俺は素直に、
「国立科学博物館。科学技術の歴史に関する展示を、ちょろーっと観たくって」
「へぇーっ」
微笑みの大井町侑(おおいまち ゆう)さんは、
「新田くんらしいわね。国立科学博物館の中でも、科学技術の歴史展示がピンポイントで気になるなんて、オタク魂(だましい)が燃えたぎってるみたいじゃない」
いや、余計なコトバの付け加えはやめてくださらないか。オタク魂が『燃えたぎる』だなんて大袈裟過ぎるぜ。
……ま、良いんだけどさ。
× × ×
羽田愛さんが2人分のチケットを出してきたのは昼休憩の文学部キャンパスでのコトだった。
チケットは計4枚。2館分の2人分だから、2かける2で4。
俺も大井町さんも驚いた。驚きのあまり俺の口から、
「どうやって入手したんだ……羽田さん」
という疑問が飛び出した。
なぜか得意げに彼女は、
「両親のコネクションが強いのよ」
「……というと?」
まだ疑問なので訊く俺に、
「新田くんは、わたしの両親の仕事知らなかったか」
「そ、そーいえば、俺、聴かされてないね」
コネクションの正体を羽田さんがこれから明かすと思われた矢先、
「入手経緯だとかコネクションだとか、どーだって良いでしょ」
と、大井町さんが割って入り、
「ありがたく頂戴(ちょうだい)するわ」
と、羽田さんからチケット計4枚を受け取り、
「新田くん。行くわよ」
と、俺の顔面をキリリとした眼で見ながら言ってきたのだった。
「行くって、いつ??」
俺が訊いたら、
「今に決まってるでしょ。わたし今日、授業がひとコマしか入ってなくて、しかも出席とらない授業だし。それに、あなたの今日の授業は午前中だけだったんでしょ?」
× × ×
まず、東京都美術館に行って、展覧会を2時間近く観た。
羽田さんから渡されたもうひとつのチケットは国立西洋美術館のモネ展のチケット。金曜日ゆえに夜まで開館しているから、『17時に入館するぐらいでちょうど良いよね……』と2人で確認し合った。
で、現在は、時間調整的に立ち寄った国立科学博物館を出て、クロード・モネが待っている国立西洋美術館へと向かっているトコロ。
「もう暗くなりかかってるわね。日が短くて、冬みたい。神様は秋が嫌いなのかしら」
秋の暮れの空を見上げながら大井町さんは歩いている。
「きみも『神様』なんて言うんだね。もっと無神論者的かと思ってたよ」
空を見上げたまま、明るい声で、
「なにそれ新田くんヒドい。ヒド過ぎる発言だわ、今のは」
と、彼女は……。
「無神論者なんてどうせ、フリードリヒ・ニーチェぐらいしか思い浮かばないクセに」
朗らかな声で、攻撃的なコトバを付け加える。
俺は苦し紛れに、
「たぶん、ニーチェより、クロード・モネの方が……産まれたの、後だよね」
「しーらないっ☆」
「お、おいおいっ」
「知らないモノは知らないのよ。何が悪いってゆーの?」
少し振り返り、目線を向けてくる彼女。
横顔は、微笑(わら)い顔で。
× × ×
「ふぅっ、疲れた……」
肩を落とす。モネ展プラス常設展のダブルパンチで、館内に3時間滞在。さすがにくたびれた。
背後から、
「わたしは全然疲れてませんよーだ♫」
という大井町さんの楽しげな声。
これまで耳にしたコトも無い無邪気さで、ビックリしてしまう。
彼女は距離を詰めて、
「退館しちゃったワケだけど、少し名残惜しいわ。でも、あなたが限界になっちゃったから、仕方無いわよね。ハタチそこそこの男子のクセに、限界になるのが早過ぎる気もするけど」
『もっと鍛えなさいよ』だとか言いたいんだろうか……と思っていたらば、
「おなか、すいてるんじゃない?」
と、予想外の優しさ。
たしかに、腹は減っている。しかし、上野近辺の飲食店をてんで知らない。だから、
「ここらへんの食う所、よく知らないんだ」
と正直に言う。
「それは残念ね」
「すまない」
「いいのよ」
「リサーチ不足でごめんよ」
「何度も謝らないでよ。これ以上ダメ男子学生にならないで」
「ん……」
いつの間にか彼女は右隣に立っている。
少しの間(ま)の後で、意味深に、クスクスと笑い出した。
それから、また少し間を置いて、そしてそれから、俺の方に左肩を近付けてきた。
「……近くない?」
我慢できずに言ってしまう俺に、
「これから、あなたが今日良かったトコロを言うから、あなたが聞き漏らさないように、近付いたの」
と彼女は答える。
続けざまに、
「東京都美術館でも国立西洋美術館でも、展示を観る時、あなたは一生懸命だった」
と言い、
「どうせ適当に流し見するんだろう……って、ここに来る前は思ってた。でも、あなたをナメ過ぎていたのね。真剣そのものだったから、驚いた。驚いた後で、あなたのコトを見直した」
と言う。
いったんコトバを溜めてから、
「これまでずっと、あなたを過小評価し続けてきてしまった。4年間も、低い評価のままで。10点満点だったら3点とか4点とか、ヒドい認識だったわ」
「しょうがない面も……あるだろ。俺にしたって……不甲斐無くて……」
「新田くんストップ」
これまでに無い、至近距離、から、
「わたし、今さら謝らないけど。謝らない代わりに、伝えたいキモチがあるの」
と、言ってきた。
言われて、しかも、カラダが触れる寸前の至近距離だったから、気が動顛(どうてん)するほどに、俺の胸はガンガン騒ぎ立てていて。
告白……?
そんなばかな。
い、いや、あり得ない。
あり得ない、あり得ないよな、うん。
だとしたら。だとしたら……彼女は、これから、どんなキモチを伝えるつもりなんだ……!?
恐る恐る、彼女の顔に顔を向ける。
優しい表情が見える。
大学4年生なのに、高校3年生のような表情に見えてしまった。
なぜ彼女が幼く見えたのか。分からなくて、利き腕の右腕にチカラが入る。余計なチカラが。
そしたら。
右手首の上あたりに、確かな感触があった。
そう、確かな感触だった。彼女の、大井町さんの、確かな感触だった。
温かい彼女の感触。
体温が染(し)み通り、やがて理解する。
キモチをコトバで伝える代わりに、触れてきたのを。