【愛の◯◯】明るい部屋の彼女は

 

幸いにして、西武新宿線の車内は比較的空(す)いていた。首都圏の路線とはいえ、ラッシュアワーを過ぎた時間帯の各駅停車だからだろうか。

ネットカフェに立ち寄ってシャワーを浴びるべきだったのではという後悔はある。乗車した駅の近くにネットカフェは無く、帰宅を優先させてしまった。昨日から服を着替えていない。自らの体臭が気になる。他の乗客は、俺の懸念などつゆ知らず、ほとんどがスマートフォンを見ている。でも、気になるモノは気になるのだ。

無精ひげが露(あら)わになっているはずだ。俺のひげはすぐに伸びてくる。丸1日以上剃らなければ、無精ひげで顔面が見苦しくなる。『この人、何だか不潔』みたいに思ってこっちを見てくる乗客は、今のところ居ない。しかし、油断はできない。

『彼女』の自宅のシャワーを借りれるワケも無く。『彼女』がシェーバーの類(たぐい)を持っているワケも無く。

『彼女』というのはすなわち、大井町侑(おおいまち ゆう)さんなのだが。

 

× × ×

 

昨夜。

アパートまで辿り着いたは良いものの、大井町さんはなかなか自分の部屋に入ろうとしてくれなかった。べろんべろんに酔った彼女からどうにか鍵を受け取り、俺が解錠した。その途端に、彼女がドアの前に崩れ落ちた。近所迷惑になってはいけないから、彼女を部屋の中に入れるのに必死になった。ほとんど抱きかかえるようにして、彼女の軽いカラダを中へと運ぼうとした。しかし、獣(けもの)がガブリと噛み付くかのように、俺の動きを押し止(とど)めようとしてくるのだ。数十分間に渡る格闘の末に彼女を部屋に収容した俺の体力は底をついていた。

疲労が激しく、初めて入った彼女の部屋の彼女のベッド、の側面に背中を委ね、カラダを休めようとした。次第に視界が暗くなっていった。キッチンの手前に寝転んでいる彼女のコトを考える気力は既に尽きていた。

 

目が覚めると明るい部屋になっていた。朝の光のおかげで明るかった。大井町さんは身を起こしていた。

「電気、点けるね」

というヒトコトで、彼女も目覚めたばかりだというのを把握した。

彼女は紐を引いて蛍光灯を点けた。明るさに明るさが加わった。トレードマークの見事な黒髪ストレートを手ぐしで数回ならした後、彼女はコップに水道水を注ぎ込み、ごくりごくりと飲んだ。

俺は勇気を出し、

「あのさ。部屋(ここ)に入ってすぐ、寝入って……。それで、その、大井町さん、きみには何にもしてないから」

と彼女の背中に伝えた。

彼女は明るい声で、

「神に誓って?」

と言ってくる。

「神に誓って。」

俺はもう一段階勇気を振り絞る。

すると、コップを置いた彼女は、サッと振り向いて、

「分かってるから。何にもしてこなかったコトぐらい」

「……ホントに?」

「にぶいのね」

「に、にぶい、とは」

「なぜ何にもしてこなかったのが分かるのかは、放送コードに抵触する危険性があるから、言わないでおくけど」

自ずと全身の体温が高まってしまう俺がいた。正座になり、両膝の付近に両手を押し付け、俯いてしまう。

昨夜とは打って変わっている彼女は、

「ごめんなさい、新田くん。そして、ありがとう。迷惑をかけまくったわたしを、部屋(ここ)まで運んできてくれて……」

と、キッチンに腰を委ねながら、柔らかに感謝してくれる。

立っている彼女の長い脚がまともに眼に入ってしまい、上がった目線が下がってしまう。彼女は昨夜からジーンズを穿き続けている。それも目線が下がってしまう理由になる。

眼のやり場に困った俺に向けて、

「ねえ、わたしにワガママ言わせてよ」

と意味深なニュアンスのあるコトバを発してくる彼女。

続けざまに、

「ワガママっていうのは、『服を着替えさせて』ってコト」

というコトバをぶつけてくるから、心臓が大ジャンプする。

ビックリしつつ、ビクビクとなりつつ、懸命に腰を上げて、

「だ、だったら俺は、もう帰るよ」

と震え気味に言うも、

「帰っちゃイヤよ」

と即座に言われてしまい、焦りが5倍増しになる。

「帰っちゃイヤって……なんでだよ」

完全に震え切った声で訊く俺に、

「感謝のキモチで、もてなしたいから。具体的には、朝ごはんを作ってあげたり」

変な汗がどんどん出てくるのを避けられなかった。朝ごはんを作ってあげる!? 感謝のキモチがあるにしても、普通は、そこまでは……。いったいどういうつもりなのか!?

「だから、部屋に居てちょうだいよ」

「で……でもさ、きみは、『着替えさせて』って、言ったよね。きみが着替えるのなら、帰らないにしても、いったん外に出るしかないよ、俺は」

「――反対側を向いてれば良いでしょ?」

なななななっ!?!?

「ちょっとだけ、わたしに背中を向けてくれるだけで良いのよ。すぐに着替え終わるから」

今年に入って以来、最も心臓の音が高鳴っている俺に、

「すぐに着替えて、朝ごはんの準備するから」

と彼女は容赦が無い。

苦し紛れに、玄関ドアの方を向く。

彼女が服を脱ぎ始める前に、先手を取りたくて、

「いや、いったん出るよ。出る。そこら辺ブラブラしてるから、スマホに連絡入れてくれ。そしたら、戻ってくるから」

と言い、

「さっきみたいなコト、あんまし言っちゃダメだと思うぞ。きみの方では気にしないかもしれないけど。……きみの部屋に俺が来てるコト自体、一線を踏み越えてるというか何というか……な状況なんだから」

とたしなめる。

彼女の反発や反論を待たず、玄関ドアへ足を運び始めていた。

 

× × ×

 

車窓に新宿区らしい風景が見えてきた。

高田馬場で降りる。昨日、2人きりのサシ飲みで、大井町さんが泥酔してしまった高田馬場で。

大井町さんが作ってくれた朝食の味が、まだ舌に残っている。

舌に残っているだけではなく、身にも染みていた。

特に、白菜の味噌汁が、美味しくて、身に染みた。