【愛の◯◯】名前で呼んで、想うまま

 

ウィキペディアを読んでいたら、ノックの音。勉強机の前の椅子から立ち上がり、部屋の入り口に歩いていく。『誰だろう』と思いながら、ドアノブをひねる。

そこに立っていたのは、

「麻井先輩? どうしたんですか? ぼくに何か用があるんですか?」

見下ろして訊くぼく。見下ろされて訊かれる先輩。

彼女は、ぼくの顔の方に視線を上昇させようとせずに、早口で、

「とにかくアンタの部屋に入らせて」

……どうして。

 

× × ×

 

入室したはいいものの、座り場所を決めあぐねているようで、ぼくと距離をとって立ったまま、うつむき気味に部屋を見回す。勉強机の前の椅子にぼくが再び着座してからおよそ1分後、前に進み、ぼくから2メートルぐらいの距離の所に腰を下ろした。

両膝をぺたん、とカーペットに付けているコンパクトな体型の麻井先輩。今日の彼女はなんだかオシャレだ。いや、今日だけではない。彼女の私服姿は、基本的にオシャレな気がする。一昨日、2泊3日するために邸(いえ)にやって来た彼女。彼女の姿を見るのは本当に久しぶりだった。私服姿を見るのもまた然りだった。思えば、高校時代以来の再会。通常は制服姿で相対(あいたい)していたけれど、彼女の私服姿を全く見なかったワケでは無かった。そして、彼女が私服姿をぼくに見せる時、その姿は、『よそ行き』の、普段の凶暴な性質からは考えられないようなモノであるのが常だった。

『この女子(ヒト)の背丈があと20センチ高ければ、もっともっとファッショナブルなのに。ぼくの姉なんかよりも、ファッションセンスに関しては全然上で……』とか思っていたら、

「羽田?」

と、麻井先輩が、ぼくの苗字を呼んできて、

「お誕生日、おめでとう」

と、いきなりの祝福を。

慌ててぼくは、

「た、誕生日は、昨日だったでしょう? 先輩、昨日、祝ってくれたじゃないですか!? まだ祝い足りないって言うんですか!?」

昨日彼女は邸(ここ)で目一杯祝ってくれた。昨日の祝福だけでもう、十二分にありがたかったのに。

「んー」

彼女は、

「今日でお泊まり最後だから、重ねてお祝いしたくって」

「『重ねて』って……」

「ねぇ」

「な、なんですかっ」

「静かで良いね。2階に部屋のあるメンバー、アンタ以外全員外出してるでしょ? アンタの部屋をノックしようと思って廊下を歩いてたら、シーンとしてて、良い静寂だと思った」

「それが、なにか」

「こんだけ静かだから、言えるコトだってある」

小柄でありながらもファッショナブルな彼女が、姿勢を正し、

「羽田利比古クン。3年半もキミを遠ざけていて、申し訳ありませんでした」

と言って、頭を下げた。

「卒業式の時、『しばらく会わないでおく』みたいなコト言ったと思うけど……あれから、3年半も経っちゃった。どうかしてるよねぇ、アタシ」

柔らかな苦笑い。2学年下のぼくにしばしば暴力を振るっていた頃の面影が、無い。

「ごめんなさい。そして、ハッピーバースデー」

「で、ですから、ハッピーバースデーならば、昨日の時点でもう十二分に……」

柔らかな笑みをたたえた彼女は、何も言わず、ぼくの襟元の辺りに視線を当て続ける。

時間が流れる。形成される困惑。彼女の次の行動を読めなくなる。凶暴性がどこかに消えたのも戸惑うし、そもそもどんな理由でぼくの部屋に押しかけて来たのかも全く分からなくなる。

彼女がソワソワし出したのに気が付いたのは、勉強机の上の目覚まし時計をチラ見して午前11時を過ぎたのを確かめた直後だった。

柔和になった彼女の落ち着きがなくなった。

落ち着きなくソワソワして、ぼくの本棚だとかクローゼットだとかベッドだとかに盛んに視線を送っている。本棚はまだ良い。でも、クローゼットやベッドにそんなに視線を向けられると……言いようの無い恥ずかしさが込み上げてきてしまう。

「アンタさ」

好奇心ありあまるぼくの先輩は、

「本棚だけど、アンタのお姉さんの部屋にある本棚よりも、断然小さいね。読書家の反対だね」

「……それはそうです」

妙に軽やかな声で先輩は、

「本棚に入ってる本だとか、丸テーブルに置かれたラジカセだとかよりも、クローゼットの中に入ってるモノの方が、ダンゼン気になる」

さらに恥ずかしくなって、

「何も出てきませんから。クローゼットに期待したって」

と言うぼく。

「じゃあなに? アンタのベッドの枕元に注目したら良いの?」

ぐ……。

「枕元、アタシに見られたら恥ずかしいようなモノは置いてないみたいだけど。そういう点ではクリーンなベッドだけど、掛け布団の端っこが床にずり落ちちゃってる。詰めが甘いね」

なんとも言えない狼狽(うろ)たえが芽生える。狼狽えが心臓に食い込み、鼓動を速くする。

「ま、いいや」

彼女が、2メートルだった間隔を、1メートルにしているのに気が付いてしまった。着実に接近してきている。接近されているぼくには、なす術が無い。

彼女が腰を浮かせた。ぼくの鼓動の速さが持続する。

彼女が完全に立ち上がった。ぼくの眼が右往左往する。

「……縮こまんないでよ。アタシ、立ったよ。先輩が立ち上がったら、後輩はどうしたら良いと思う?」

追い詰められる後輩と、追い詰める先輩。そんな構図が、つらい。

「こーゆーときはどーするべきなのかなっ、羽田利比古くんっ」

ビクビクしながら立ち上がる。これしか選択肢が無い。

またもや先輩がぼくと距離を詰めた。逃げ場は失われた。

「無事アンタが立ってくれたんで、お願いしたいことがある」

「……はい?」

「今日がお泊まり最終日ゆえの、一生のお願い」

「……はい!?」

上目遣いでぼくを見る。しかしそれがいったん下目遣いに変わり、かすかに頰を赤らめ、苦笑いをする。しかし結局は上目遣いに復帰し、熱を帯びた視線をぼくに注ぎながら、

「『利比古』って呼ばせてよ。この部屋限定で良いから。……あのね、アンタを苗字呼びばっかりだと、他人行儀でしょ? アタシにはそれがイヤなの」

「……」と沈黙の穴に落ち込んでいきそうなぼく。

そんなぼくを、

「利比古。」

と、先輩が、呼ぶ。

初めての名前呼び。「利比古」呼び。

動機が、見えてきてしまっていた。ここまで迫ってくるってコトは。先輩のキモチは。こういう態度や行動を支えているモノ。それは、たぶん……。

「利比古っ。アタシね、昨日の夜ね、アンタのお姉さんと1つのベッドで寝た。お互い眠りに落ちる前に、アタシ、アンタのお姉さんに引っついて、伝えちゃったんだ」

触れるがごとく眼の前に彼女が来ていた。

ぼく自身のコトも眼の前の彼女のコトも制御できなくなる。

「なんてコトするんですか……。姉とスキンシップしながら、自分の『想い』を打ち明けるだなんて」

ぼく自身を制御できないから、こんなコトバが露出してしまうのを留められなかった。眼は逸らし気味に、不満めいた早口で。

突っぱねても、どうにもならない。彼女から『王手』をかけられて、万策尽きる。

「利比古、ウザいよ。中途半端にツンツンするなんて、ゆるさない。アタシにもっと誠実になってよ。利比古だったらできるはずだよ!?」

畳み掛けられる。

畳み掛けられた直後、自分自身の胸元に、自分自身のモノでない体温を感じ取る。

ふにゃっ、とした感触が、ぼくを完全に打ち負かす。

麻井先輩がぼくに抱きついてきたのだ。

「……これで、独り占め。」

麻井先輩の甘い声が、ぼくを蝕んできた。

彼女の想うままだった。