わたしは日記帳を持っている。自分専用の小さなテーブルの本立てに立てかけてある。ふたり暮らしパートナーのアツマくんには『絶対に見ちゃダメ』と言っている。もし彼が好奇心に駆られて見てしまった場合のペナルティはいろいろ考えている。いまだかつて見られたコトは無い。彼のそういう点は評価できる。
今夜はアツマくんは遅番である。さらに遅番が終わった後でお店の同僚さんと「飲み」をするらしい。マンションに帰ってくるのが、かなり遅くなる。気長に待つコトにする。夕ご飯はもう食べ終えている。食器もキッチンも既にキレイにしている。
リビング奥の自分専用テーブルの前まで移動する。座椅子に身を委ねて本立てから日記帳をヒョイ、と抜き出す。お値段が高い代わりに頑丈な日記帳である。『横浜ベイスターズ』だった頃のベイスターズの某星型マスコットキャラクターのシールが表紙には貼られている。
日記をつけるのは不定期だ。気まぐれで開店時間を変える喫茶店みたいなモノだ。わたしはそういう喫茶店でコーヒーを飲むのが割りと好きだ。ここ3日間は日記をつけられなかった。親友の誕生日を祝ったりして忙しかったから仕方が無い。今日は書きつけるべきコトがたくさんある。朝から夕方まで外に出ていた。結構いろんな場所に出向いていた。
日付と曜日を記してから天候をその下に記し、天候の下に「AM6:00」と時刻を記す。これは本日の起床時刻である。起床してからの出来事を自由奔放に書き入れていく。◯◯なコトや◯◯なコト。例えば、アツマくんが今年初めて朝ご飯のトーストにマーマレードを塗ったとか、新目白通りを歩いていたら雑貨屋さんの脇道から野良猫が飛び出てきたとか。記憶力に自信のあるわたしは次から次へと出来事を書き散らしていく。
文体はわたし独自の文体である。というのは、「口語」だけで日記を書いているのでは無いのである。「文語」が混じっている。つまり、平安朝の日記文学みたいな言い回しが口語体散文の中にいきなり割り込んでくるというコト。口語体と文語体のミックスジュースだ。わたしは実は文章を書くのが苦手である。夏休みの読書感想文が鬱陶しかった。高校時代の最大の苦手科目は小論文だった。大学の講義のレポートを書くのも得意ではない。だから、こういう乱れた文体の日記になるんだと思う。
『椿山荘の向こうに見えたる夏の雲の峰、いとおかし。』
こんな風な謎の記述を混ぜ込む。文語体まがいなのだから本来は旧仮名遣いで表記するべきではある。でも面倒くさいから新仮名遣いで書く。
3ページを費やして日記を書き切った。微かに肩が凝っている。背筋を伸ばし、軽く軽く肩をほぐす。自分専用テーブル右横のタンスの上にある置き時計を見る。午後8時45分だ。あと1時間以上は、わたしのパートナーを待たなければならない。選択肢は1つしかない。読書をしてアツマくんを待つのだ。
岩波文庫黄色の『紫式部日記』と『更級日記』を15分ずつ読んだ。岩波文庫青色のスピノザの『デカルトの哲学原理』を30分読んだ。スピノザは紫式部や菅原孝標女と全く関係が無い。かけ離れている。かけ離れたモノを同時に読むのも読書の味というモノ。
スピノザを閉じて卓上に置いた瞬間に、スマートフォンがぶるる、と震える音がした。
誰だろう?
スマホを持ち上げて画面を見た。意外な名前が表示されていた。
『麻井 律』
とりあえず彼女からの着信に出てみる。
「もしもしー? りっちゃん、どーしたのー? 珍しいわね、こんな時間帯に電話をかけてくるなんて」
茨城県の某学園都市の某大学で彼女は夏休みを過ごしているハズである。
『……ゴメンナサイ、愛さん。夜遅くの電話になり過ぎた』
りっちゃんの声のトーン、低め。
「もうすぐ東京に帰省するんでしょ? わたしと遊ぶ約束とかしたかったの?」
優しく柔らかく問うてみる。
そしたら、
『んーとっ、んーーとね、アタシ、アタシ、お盆に……』
「お盆に?」
遠慮気味だけど、何かをお願いしたそうな彼女。
そんな彼女が大きく息を吸い込む音が、耳に届いてきた。