スペイン語を勉強していたらあっという間に約束の時刻になり、蜜柑がドアをノックしてきて、
「愛さんが来られましたよ」
と告げてきた。
読んでいた入門書を開いたまま部屋を出る。スペイン語を勉強しているのを伏せるつもりなんて無いのだから。
× × ×
でもやっぱり、部屋に入った愛ちゃんは、勉強机の上に開かれた入門書を眼にした途端に、うろたえの色を顔から隠し切れなくなっていってしまった。
ハルくん。
南米に飛んでいってしまったわたしの恋人。
彼の残像を追いかけるようにしてスペイン語を勉強している、そう受け取られるのも当たり前だし、残像を追いかけている自覚がわたしにもあるし。そして、愛ちゃんのうろたえる気持ちも十二分に分かってあげられるし。
分かってあげられるからこそ、
「3時間ってあっという間よね。このテキスト、もう3周目なのよ」
と言い、まっすぐ、優しく、愛ちゃんを見つめる。
愛ちゃんは、いったん苦笑いみたいな表情になり、それから申し訳無さそうに目線を下げ、それでも目線をまた上げて穏やかな表情になっていき、
「強くて、かわいいね。アカちゃんって」
と言ってくれる。
蜜柑が夕食を作り上げるまで3時間はある。
応接間やリビングよりも自分の部屋で愛ちゃんと過ごしたかった。大好きなアルコールも自制するコトにした。
わたしはベッドに着座し、愛ちゃんは丸テーブルの手前に床座りする。
「あのね」
愛ちゃんが言った。
「わたしとアツマくんのふたり暮らしのマンション、アカちゃんファミリーからもお金を出してもらってるでしょ」
「そうね」
わたしは頷く。
愛ちゃんは微笑みつつ、少しだけ「溜め」を作ってから、
「アカちゃんも、ある意味、わたしたちの家族だと思うのよ」
「支援してるから?」
「まあ、そういうコトね」
「お金はわたしの父と母から、だけれどね」
「うん、分かってる。あなたのお父さんやお母さんだって、わたしやアツマくんから見れば、家族みたいなものよ」
照れ混じりの感情を胸に抱く。愛ちゃんは嬉しいコトを言ってくれている。
「愛ちゃん。わたしの方から見れば、なんだけれど」
「うん」
「アツマさんが、自分のお兄さんみたいに思えてしまって。そういう思いを拭えそうも無くて」
「そういう風にしてあなたが彼を慕うキモチぐらい、理解してるわよ」
素敵に笑う愛ちゃん。
「本当の妹のあすかちゃんには悪いけれどね」
顔が少し紅くなっているのを自覚しつつ言うわたし。
互いに互いを見つめ合い、笑顔を見せ合う。
× × ×
「アカちゃんのお父さんとお母さん、まだお仕事中?」
「そうね。夕食の時間にはたぶん間に合うでしょう」
「良かったわ。ごはんは沢山の人と食べた方が美味しいもんね」
「両親が変なコトを言わないか心配だわ」
「無茶振りな質問をわたしにしてくるんじゃないかって?」
「そういうコト。愛ちゃんが同席するから、舞い上がってしまいそうで。特に、父の方が」
「あなたのお父さんって面白いわよねぇ。異色な人柄の経営者というか何というか」
「異色過ぎて困るのよ、娘としては。この前だって、階下(した)のピアノをわたしが弾いていたら……」
「ちょっかいを出されちゃったんだ」
「より正確に言うのなら、長話を延々と聴かされて、ピアノ演奏を完全に妨害された」
「アハハ。『らしい』パターンね」
「父がどんな話を繰り広げたと思う?」
「アニメの話とか?」
「鋭いわね愛ちゃん。1994年のテレビアニメの話をしてきたの」
「ずいぶんピンポイントね。ちょうど30年前だからか」
「もう働き出していたのに、アニメを卒業する気なんか微塵も無かったみたい。どうしようも無さ過ぎるわ」
次第に早口になっていくのをわたしは抑え切れない。
「当時、『覇王大系リューナイト』っていうアニメが放映されていたのよ。『覇王大系リューナイト』について、父は、1時間以上話し続けて……」
「アカちゃんが困っちゃうのも無理ないね。でも、あなたのお父さん、30年前のアニメのコトを1時間以上も話し続けられるなんて、天才的だと思う」
「幼稚な天才よ」
「こらこら、そこまで言わなくたって」
やんわりたしなめられるんだけれど、
「もし、夕食の席で、父がアニメトークをしてしまう『兆し』があったら……」
「あったら?」
「『月に代わっておしおきよ!!』って言って、怒るかも」
「……30年より前のアニメの決めゼリフよね、それ」
「わたしは21世紀産まれの21世紀チルドレンなのにね」
「『21世紀チルドレン』って、造語?」
「造語」