眼は覚めていたけど、ベッドに身を預けたまま、強めの雨脚で降る雨音にしばらく耳を傾けていた。
やがてフェードアウトしていく雨音。
雨が音を奏でるのと入れ代わりに静けさがやって来て――静寂の到来を合図にするように、わたしはようやくベッドから身を起こす。
ベッドから出て、勉強机に歩み寄り、スマホを充電コードから外す。
お天気アプリを開き、きょうの空模様を確認する。
きょうはもう、雨は降らないみたいだ。
棚からラジオ体操のCDを抜き出し、ラジカセにセットする。
ラジオ体操のメロディに合わせて、ゆっくりとからだをほぐしていく。
もちろん、第1・第2を通しで。
ウォーミングアップは――大事。
× × ×
ランニングマシンの上に立つ。
負荷をかなり弱めに設定して、始動ボタンを押す。
…調子を崩す以前は、負荷をこんなに弱く設定することなんてなかった。
まだ、負荷を強くしていくことができないでいる。
病み上がり。
屋外でのランニングを再開するまでには、時間がかかりそうだ。
ランニングマシンで、走れるからだを再び作っていかないといけない。
あとどのくらいしたら、走れるからだが戻ってくるのか……。
正直、わからない。
× × ×
「――どう思う? アツマくん。いつになったら、走れるわたしに戻れると思う?」
ミネラルウォーターのペットボトルをテーブルに置いて、訊いてみる。
「外でランニングするのに耐えられるからだを取り戻すまで、あとどのくらいかかるんだろうか……っつーことか」
「まさにそういうこと。……どう思うかしら」
「んーっ」
読んでいたスポーツ新聞をテーブルに置いて、
「焦りすぎは禁物だよな」
と言う彼。
「禁物だが、不安になるおまえの気持ちも理解できる」
「……共感してくれるのなら、具体的なアドバイスも」
「アドバイス、ねえ」
彼はソファに背中を預けて、
「アドバイスより……、マイペースだろ」
「マイペース……??」
「そ。アドバイスより、マイペース」
「アドバイスより、マイペース……」
「このフレーズ、呪文みたいに覚えとくといい」
× × ×
アドバイスより、マイペース。
アドバイスより、マイペース。
アドバイスより、マイペース。
お昼ごはんの食器を拭いたあとで、キッチンに立ったまま、こころのなかだけで3回復唱した。
ダイニングテーブルに戻ったら、アツマくんと眼が合った。
「どうだった? おれが作ったスパゲッティは」
「……とても美味しかったわ」
「ふむ」
「……」
「うんうん。『お世辞なんかじゃないんだからね!』って、顔に出てる」
ぬな。
「お……お世辞なんか言わないっ。あなたのお料理スキル……グングン上がってるから」
「嬉しいよ」
「……」
「おまえのおかげだな、愛」
「……。
きっと。
きっと、あなたのマイペースのおかげでも、あるのよ」
「なんじゃいそりゃ」
× × ×
アツマくんにしてあげたいことがあったから、彼の部屋のドアをノックした。
ガチャリとドアが開き、アツマくんが出てくる。
「やっぱり愛だったか」
「…うん。わたし」
「スキンシップしたくなったか」
「ぜ、ぜんぜんちがう」
「恥ずかしがるなよ」
ちがうっていってるでしょっ。
「用件……言うわよ」
「おう」
「……紅茶」
「は?」
「紅茶! ……紅茶、飲みたくない?? アツマくん」
「んー、そんなに」
「……そう言われるのも、わたしは織り込み済みであって」
「へ」
「お願いっ。飲みたくなくても、飲んでっ」
「紅茶を?」
「紅茶を」
「おまえが、淹れるってこと??」
「――そうよ。」
「――おまえなあ。
正面から抱きつき状態で言わんくってもいいだろ」
「ひとこと多い……。」
「けっきょく、スキンシップ発動してんじゃんか」
うるさいわね……。
抱きついていても、彼が苦笑いしている顔が、いとも簡単に浮かんでくるから……つらい。
× × ×
「蜜柑さんにインスパイアされたってわけか」
「やっぱりわかるの」
「おととい来てたし」
「わたしは基本的にコーヒー原理主義者なんだけど……カフェインの多様性は、やっぱり、大事だと思って」
盛大に笑うアツマくん。
ばかじゃないの。
「そんなに爆笑する必要ないでしょ!! 『カフェインの多様性』っていう表現が、どんだけツボにはまったってゆーのよ」
「いやぁー、すまん、すまん、」
「もっと真面目にやりなさいよっっ」
「まーまー、怒るなって。おれのマイペースも許容してくれや」
マイペースってなに!?
「わかるでしょ!? 寛容さにも限度があるって」
「はいはい」
…ムカムカになりながら、2つのティーカップにダージリンティーを注(そそ)ぐ。
アツマくんは満面の笑み。
「ほらっ、意味不明に笑ってないで、飲んで、ダージリンティー」
作法もなにもあったものじゃない飲みかた。
あなた……ほんとに、来年から喫茶店で働き始めるの!?
「アツマくんっ」
「夕ごはんのあとで、緊急特別マナー講座するわよ」
「え? なぜに」
「理由はじぶんで考えて!!」
……気を落ち着けるために、わたしもダージリンティーを飲んでいく。
……こうやって飲むのよ。
なんだかんだで、育ちがいいんだからね、わたし。
「――お嬢さまっぽい飲みかたするな~」
「これが普通なのよ!!!」
× × ×
「……あなたの凶悪なマイペースのおかげで、紅茶を味わう余裕もなかったわ」
「すまんかったよ」
「わたしは余裕なかったけど、あなたはあったでしょ??」
「余裕が?」
「味わう余裕よ」
「それはどうかなあ」
「バカ!」
「ひぇ」
両手の拳でテーブルを軽く叩いて、
「感想。感想言って。言わないと、ダイニングから出させない」
「なんの感想?」
「どうしてそんなに鈍いの!? 川又さんだって、ニブチンって言いたくもなるわよ」
「おいおい」
「…あなたのせいなんだからね。わたしのテンションが荒れてくるのは」
「くるしゅうない」
……本格的にバカになってるわね、あなた。
神経を疑うわ。
「――紅茶の感想を言えばいいんだろ?」
「……そうよ。感想言って、ニブチンの汚名を返上して」
「そうだなあー」
「……はやくっ」
「――存外、イングリッシュ風味だった」
「て、適当すぎるでしょ、それじゃ!! あと『存外』ってなに……」
「日本に居ながら、英国の風を感じられる……そんなお茶だったよ」
「か…風を感じられるとか、キザな」
「ただ…」
「??」
「これが、蜜柑さんの淹れた紅茶だったら、飲んだ瞬間にロンドンに飛んでいけるんだけどな」
……脱力。