朝。
邸(いえ)に泊まりがけで来ていたアカ子さんが、リビングに姿を現した。
不安そうな彼女の表情。
どうしたのか。
「おはよう、アカ子さん」
おれから声かけする。
「おはようございます……アツマさん」
「…よく眠れた?」
「わたしが…ですか?」
「きみが」
「……わたしのほうは問題なかったんですけど、愛ちゃんが」
「あいつ、うなされてたりしてたか」
「はい。ベッドで添い寝してあげていたから、愛ちゃんの様子はすぐそばで観られたんですけれど……」
「安眠できていなかったみたいだな」
「わたしの添い寝が、逆効果だったのかしら」
「そんなことないぜ。アカ子さん」
「……不安です、わたし。不安が拭いきれない」
無理もないよな……。
とりあえず、穏やかに、
「ピアノでも、弾いてあげたらどうかな」
と提案してみる。
「そうですね……」とアカ子さん。
「やってみようと思います」
……ピアノの前に。
「アカ子さん、腹ごしらえをしようぜ」
「え?? 腹ごしらえ、って」
「朝飯、できてるよ。――腹が減っちゃあピアノもうまく弾けないだろ」
「朝ごはんは……どなたが」
「あすかが7割、おれが3割」
「……きょうだいの共同作業ですか」
「まぁそんなとこだ」
「……ありがとうございます」
ちなみに。
「ちなみに、量に関しては、きみの胃袋を考慮した」
「え、え、ええっ」
「すまん。――聞いちまったんだ、あすかから。きみが、大食いキャラだと」
途端にうつむくアカ子さん。
恥じらいか、不機嫌か。
× × ×
それから3時間後。
リビングの同じ場所で、就活用のスケジュール手帳にメモ書きをしていたら、またアカ子さんが姿を現した。
「ピアノは、もういいんか??」
声かけ。
彼女の反応が芳しくない。
ピアノを弾いてあげる作戦……失敗しちまったんだろうか?
「……わたし、精一杯、弾いたんですけど」
憂いの声で、
「愛ちゃんには……響かなかったみたい」
……。
「音楽も、彼女の助けになってくれないなんて……。いまのわたし、絶望感でいっぱいです」
……アカ子さん。
「わたしひとりのちからじゃ、どうにもならない」
無力さが、彼女の全身を覆っているように見える。
肩を落として。
視線は、床に落ちて。
立ったままじゃ……からだに毒だろ。
こういうときは、おれが、彼女のためになってやらねば。
「――ソファに座ったら。アカ子さん。少し、気を落ち着かせて」
優しく言う。
「音楽が響かないのは、きみのせいでも、愛のせいでもないよ。――だれのせいでもない」
優しく、優しく。
ゆっくりとソファに近づいていく。
おれの真正面のソファにゆっくりと座る。
弱りきった顔が、おれの視界に入ってくる。
「――泣きたい?」
そう問いかける。
アカ子さんの眼は……もう、潤んでいる。
涙がぽつぽつと流れる。
そして、止まることはない。
「アツマさぁん……。」
助けを求めるような声だった。
…まず、物資援助で、ティッシュペーパーの箱を2つ、彼女の眼の前に置く。
たまらずティッシュを抜き取る彼女。
ティッシュじゃ足りないかもしれない。
フェイスタオル、どこにあったっけな。
× × ×
なかなか彼女は泣き止まなかった。
辛抱強く、泣き止むのを待つ――。
それだけが、おれのできることだった。
× × ×
まだ、彼女の眼に溜まる、涙。
あまりにもかわいそうだ。
…おれは床に腰を落とし、テーブル越しに、彼女と間近で向き合う。
用意してあげたフェイスタオルを差し出す。
彼女が顔を拭く。
フェイスタオルをテーブルに置いた瞬間。
フェイスタオルから離れた彼女の両手を――ぎゅっ、と握ってあげる。
戸惑う彼女。
荒療治なのは、百も承知だ。
「アカ子さん。
元気、出してくれよ。
きみに元気が戻ったら――愛にも、元気、戻ってくると思う」
涙の落ちた彼女の手は湿っている。
その両手に、なんとかして、おれのパワーを送りたくて。
おれの「荒療治」な想いが、伝わったのだろうか。
アカ子さんは、握りしめられた両手を、離すことはなかった。