久保山くんが、漫画雑誌を珍しく読んでいない。
「珍しいねえ」
「なにが? 有楽」
「久保山くんが、漫画を読んでいないこと」
「そんなに、かよ」
「…きょうって、マガジンとサンデーの発売日でしょ?」
「…ああ」
「いつもは、水曜日、真剣な眼でマガジンとサンデーを読んでいって、読み終わったあとで『批評』をするじゃない。今週のマガジンとサンデーは全体的にどうだったか、とか、この連載漫画が特に気になった、とか」
久保山くんは、いささかくたびれ気味に、
「今週は……そういう余裕、ないんだ」
えーっ。
「なに!? 青息吐息状態!? 久保山くん」
「そこまでオーバーに驚く必要はないが……まあ、青息吐息だ」
「どうしてよ」
「演習。卒論演習」
あーっ…。
「ハードなのね。卒論に向けてのあれやこれやが」
「そうだよ。ハードなんだよ」
ガサゴソと、じぶんのバッグから本を何冊か取り出して、
「1週間で何冊も何冊も本が読めるか、って感じなんだけど、それでも……読まないと、卒論、書けねえんだよな……」
「――大変そうね」
「大変を超越してる」
「わたしも、卒論書いてるけど…」
「有楽は、心理学部だよな?」
「そうよ。――わたしは、要領よくやってるかな」
「マジ要領いいよな、おまえ」
「いいのよね。就職も決まったし」
「……バラ色の人生か」
「久保山くんのほうは、イバラの道の人生ね」
「ヒドい、ヒドすぎる」
× × ×
真備(まきび)が入ってきた。
「おー、クボと碧衣(あおい)だけかー」
そう言って、久保山くんにすぐさま眼を向け、
「クボがグッタリだ~!!」
と煽っていく。
「クボ、だいじょぶ?? その顔、泣く勢いだよ??」
「……泣かねぇよ」
「落ちるなよ~、大学院試験」
脅す真備。
真備に、彼は、
「落ちねぇよ!! 落ちてたまるか」
「必死」
「真備も必死になれや。法科大学院だって、完全フリーパスとは、違うだろ??」
とたんに、真備が、からかい顔でなくなった。
真面目寄りの笑顔。
どことなく……わたしの眼には、しんみりとした気持ちの色が出ているように映った。
「真備……どうした」
焦る久保山くん。
「真備」
再度、名前を呼ぶ。
わたしは、立ちんぼの真備に歩み寄り、右肩を軽く叩いて、
「真備。カフェ行こうよ、カフェ」
「……カフェ? いきなり、なに? 碧衣」
「わたしが全額、おごったげるから」
「だから、なんで――」
なんだっていいでしょうに。
「あえて理由をつけるなら、久保山くんが、慌て始めてるから」
「……」
黙りこくる真備。
ちょっと可愛い。
× × ×
「――碧衣は、なんで心理学部を選んだの?」
ストローをもてあそびながら、訊く真備。
「言わなかったっけ」
「言われたかもしれないけど、忘れた」
「そっか」
わたしは、フルーツタルトをフォークでもてあそびながら、
「割りと、軽い動機だったんだけど。……高校生時代にね、仲間内で、フロイトが流行ってて」
「すごくないすごくない。フロイトの著書なんかろくに読んでなかったし、ただの『フロイトごっこ』だよ」
「それでも、すごいよ」
そうかなー。
「夢判断、というか、なんというかで、じぶんが見た夢を言い合って、あれこれ仲間内で夢の解釈をしたりして。そんな、遊び」
「――知的だ。」
「ぜんぜん?」
「わたし――高校時代、フロイトの4文字も、ユングの3文字も、知らなかった」
「じゃあ、ラカンの3文字は?」
「――知るわけないよ。ラカンって、だれ」
「ジャック・ラカン」
「ふぅん……」
「……話を戻すと、フロイトごっこが高じて、フロイト入門書をつまみ読みしたりしたのね」
「……うん」
「で、『オイディプス・コンプレックス』みたいな概念が面白いと思って。それで、心理学を学ぶことに決めたの」
「……そっか」
……いまの真備の眼、
さみしそう。
「碧衣は、ほんとうに、すごいや」
そうつぶやいてから、ストローをガジガジと噛んでいく。
……お行儀が悪くって、しかも、さみしそうな目線を、カフェのテラスに向けている。
そんな……愛すべき真備に向かって、わたしは、
「真備。
なんでも――言っていいんだよ」
驚いて、ストローを噛むのをやめて、
「ど……ドッキリするじゃん。なんなの、碧衣!?」
なんだって……いいでしょ?
長い付き合いじゃない……。
4年間も、一緒のサークルにいるんだよ。