「おはようございます、おねーさん」
「おはよう、あすかちゃん」
「……」
「どっどうしたの、その含み笑いは」
「おねーさん……。
ゆうべは、おたのしみでしたね」
ウッ。
「……。
あすかちゃん、悪い子ね、あなた」
「悪い子でごめんなさい♫」
……まあ、いいや。
おたのしみの一夜だったことは、事実なんだから……。
『お相手』をしてくれたアツマくんは、きょうも寝ぼすけさんだった。
× × ×
そんなことより。
そんなことよりも。
引っ越しの日である。
わたしが、ひとり暮らしを始める日である。
× × ×
がらんどうの部屋。
引っ越しを手伝ってくれたアツマくんとあすかちゃんは、すでに帰っている。
つまり、ひとりっきり。
いよいよ、わたし「だけ」の生活が、スタートしたのだ。
…帰りぎわ、アツマくんが、
「合い鍵を作ったからな」
と言ってきた。
「合い鍵なんて、必要あるの?」
「あるだろ」
「ほんとかしら」
「母さんに言われて作ったんだ」
「明日美子さんが……。
『明日美子パワー』ってことね、それは」
「そういうこと。
こころに留めとけよ、合い鍵作ったってことも」
――明日美子パワーと合い鍵は、さておき。
ここは、中野区某所のマンションである。
部屋はワンルーム。
23区は家賃高いし、贅沢なんて言っていられないわよね。
大学までは、電車で通うことになる。
大学の間近に住んじゃうと、ダラダラと過ごしちゃうと思ったからだ。
つまり、電車通いは、わたしの意向。
まあ、大学の間近は、もっともっと家賃がかかっちゃうもんね。
さて。
初日なので、部屋がピカピカにきれいだ。
この清潔を……保たなくちゃな。
『できるかしら?』じゃなくって、『できるようにしなきゃ』って思わなきゃ。
わたしは、だれ?
――そう、羽田愛。
掃除も炊事も洗濯も大得意の、女の子。
もともと家事は得意の得意なんだから……自信、持たないと、ね。
× × ×
なにをしようかしら?
ちょうどお昼どきなんだし、食材を調達してきて、さっそく自炊を始めてみようかしら?
…いや。
きょうは、自炊は、いいか。
あしたから始めれば、いいわよね。
いきなり家事を怠けるみたいだけど、きょうは、なんといっても引っ越し初日なんだし。
マンションの近所に人気急上昇中のお蕎麦屋さんがある、という情報を得ていた。
行ってみよう。
これも引っ越し蕎麦の、ひとつのかたち…かも。
× × ×
やっぱりお蕎麦は『もり』に限るわよね……と思いながら、お店を出た。
さっさと食べて、さっさと出ていくのが、蕎麦のたしなみ。
わたしは勝手にそう思っているんだけど、それにしても、今回のお店での滞在時間は、いつにもまして短かった。
いっしょに食べる相手がいなかったから、早食いになっちゃったのかしら?
気をつけないと…。
食後ということで、ブラブラ歩く。
うららかな春。
春の心地よい空気に誘われるように、しばらく歩き続けていたら、やがて中野ブロードウェイが近づいてきた。
…もうこんなところまで来ちゃった。
早足なのは、いっしょに歩く相手がいないせい??
早食いに、早足。
ひとり暮らしのペースをつかむには…時間がかかりそう。
せっかくなので、ブロードウェイを小一時間物色。
『漫研ときどきソフトボールの会』に所属していることもあって、サブカルチャー的な対象への感度が、以前よりも上昇しているのを自覚する。
楽しい。
それから、例のごとく、某有名チェーン書店に立ち寄る。
引っ越し祝いの『臨時収入』があったので、ハードカバーの文芸書を3冊買う。
それからそれから、日記帳と筆記用具も購入する。
× × ×
じつは、不定期ではあるが、日記をつけているわたし。
生活の雑記のような側面が強く、他人(ひと)が見ても面白くはないだろう。
だいいち、日記は他人(ひと)に見せるようなものではないと、わたしは思っている。
だから、ブログにも興味がない。
わたくしの意見に過ぎませんけどね。
個人の見解です。
はい。
……それはそうとしまして。
わたしの書く日記には特徴があって……それはなにかというと、ときに文体が文語調になることがあるの。
というか、文語体で日記を綴ることのほうが多いの。
男もすなる日記を女もしてみむとて……的な文体になるのである。
まあ、わたしの古文作文、テキトーなんだけどね。
でも、普通に書くのもいいけど、普通に話すように書くだけじゃ、つまんなくない??
× × ×
さてさて、ピカピカの『新居』に戻ってきたわけである。
入念に手を洗って、手もピカピカにする。
そして、買ってきた3冊の文芸書と日記帳と筆記用具をデスクに置く。
そしてそして、日記帳の表紙に『2022.3.28~』と記入する。
文芸書を読み始めるのも良かったけど、「生活の雑記」のほうを優先させたかったのだ。
きょうの朝から現在に至るまでの流れを、文語体混じりの文章で書き留めようとする。
……ところが、中野ブロードウェイ見物をしたことを記述したところで、書き進める手が止まってしまった。
あとちょっとなのに。
くたびれてしまった。
日記を書き上げるスタミナが……切れちゃった。
くたびれてしまった右腕を揉みながら、
「どうしてだろ。
いつもは、日記を書き上げるスタミナぐらい、あり余るわたしなのに」
と独りごちる。
「午前中から引っ越し作業でバタバタだったから……『見えない疲れ』が溜まってるのかしら?」
また、独りごち。
『見えない疲れ』……のせいだろう。
たぶん。