羽田さんに出くわした。
出くわしたのは、新宿。
画材店で買い物をして、デッサンの練習がやりたくて、デッサンをする場所を探しに、スケッチブックを小脇に抱えて歩いていた。
歩いていたら――見てしまった。
羽田さんが、背の高い男の人と、寄り添いながら歩いているのを――。
ときどきサークル内で話題にのぼる、『アツマさん』その人だった。
紛れもない、羽田さんの、年上の、彼氏。
羽田さんとアツマさんのふたりとは、立ち話だけで別れた。
『これからふたりで喫茶店でホットケーキを食べる』という、不要すぎるぐらい不要な情報だけを得て、わたしはあのふたりから、離れた。
逃げ、だったんだろうか。
仲睦まじい男女…しかも、羽田さんとその彼氏という組み合わせの姿を、あまり長い時間見たくなくて。
それは、つまり……逃げ、だったのかもしれない。
あるいは、本能的に、避けた。
あのふたりを。
とくに、羽田さんを、避けた。
……なんでも、持っている。
羽田さんは、彼女は、なんでも持っている。
寄り添い、愛する、男の人だって持っている。
現実を目の当たりにすると、
こころはしばらく落ち着くことはない。
× × ×
なかば放心状態で西武新宿線に乗り込んだ。
下車して、徒歩15分以上かかるアパートまで、ゆらゆらと歩いた。
行水(ぎょうずい)のようなシャワーを浴び、上下ジャージになる。
ベッドに、うつ伏せに飛び込む。
きしむベッドの音に…不快になる。
羽田さんは。
彼女は。
……彼女は、愛する男の人のために、料理を作ってあげられる。
……彼女は、愛する男の人のために、ピアノを弾いてあげられる。
ほかにも……。ほかにも……。
ほかにも……っ!!
じぶんひとりで生きているのが、バカバカしくなる。
諦念?
絶望?
これは、どんな感情?
やがて、
やがて……、
黒々とした感情が、
『嫉妬』というしかない激しい情動に、成り変わっていく。
なんであの娘はなんでも持ってるの。
なんでわたしはなんにも持ってないの。
環境なんか。
環境なんか、恨みたくない。
わたしは、近ごろ流行りの、『親ガチャ』なんていうことばを濫用して自分勝手に嘆いている連中の、真逆だ。
わたしは、嘘偽りなく、家族を尊敬している。
身近な、大事なものを、恨まない。ぜったいに恨みたくない。
……それでいて。
それでいて、羽田さんという娘に対する嫉妬を抑えきれない。
彼女の境遇を恨む気持ちがどんどん高まっていく。
自炊も、身の回りのこともほったらかしのまま、夜を迎えた。
大学入学とともにアパート暮らしを始めてから、こんなのは、初めて。
× × ×
晩ごはんを作れなかった。食べられなかった。
長い時間眠っていた。
夢の存在しない眠りだった。
最寄り駅へ向かう道中。
きのうの激しい嫉妬を、がんばって抑え込もうとして、切り替えていこうとして、いつもよりもだいぶ緩い速度で、歩きつつ……、思考をめぐらせた。
わたしが、
羽田さんに、
勝っていること。
それは、
ひとりで生きられている、
ということ。
生活を、ひとりでがんばっているということ。
学業と、(掛け持ちの)バイトを両立して。
生活費を、じぶんで稼いで。
――例えば、こういう境遇に、羽田さんが、なったとしたら?
たぶん、
たぶん――、耐えられない。
耐えられないはず。
彼女は、ひとりで生きていけない。
わたしは、ひとりで生きていけている。
…各駅停車を待つホームに立っていると、笑いがこみ上げて、大変だった。
変な目で見られたくないから、噛み潰した。
テンションが正常じゃないのかもしれない。
でも、まだ大丈夫。
× × ×
第二文学部の講義までの時間を、サークル部屋で過ごそうとした。
入室したら、新田くんがいた。
羽田さんは不在だけど、新田くんの存在のせいで、ストレスがぶり返す。
羽田さんと新田くんさえいなければ、完璧なコミュニティなんだけど。
……悪い女だな、わたし。