あすかちゃんとまだ仲直りできていない。
……きのうの夜、お風呂場に行ったら、あすかちゃんとはち合わせてしまった。
いっしゅんだけ、眼が合ったけれど、すぐに眼をそらした。
それから……いっさいコミュニケーションすることなく、服を脱いで、からだを洗って、お湯に入った。
わたしから、謝ったほうが、いいのかな。
ギスギスした入浴のあとで、じぶんの部屋のベッドに寝転がり、布団をかぶった。
『わたしのほうが、不用意だったのかな……』という反省の念が、やって来た。
やっぱり、悪いのは、わたしなんだろうか。
責任、みたいなものを、感じて……掛け布団のなかで、小さくなった。
謝るにしても。
謝るキッカケを、どうやって作ったらいいっていうの。
ここまで、こじれてしまったら……謝るタイミングが、まったくわからなくなってくる。
歩み寄る、勇気も……萎えてくる。
× × ×
寝付きが、悪かった。
こんなに寝付きが悪かったの、いつ以来?
× × ×
最悪に近いメンタルコンディションで、大学に来た。
ずーっと下を向いて学生会館まで歩き、
ずーっと下を向いてエレベーターに乗り、
ずーっと下を向いてサークル部屋に歩いていった。
漫研ときどきソフト(以下略)のお部屋には、秋葉さんと大井町さんのふたりだけだった。
よりによって、こんな状態のときに、大井町さんと顔を合わせることになるなんて……。
できれば、あすかちゃんとの軋轢(あつれき)がなくなるまでは、大井町さんに会いたくなかったのだ。
こころがザワザワしているのを、見透かされるのが、怖くて……。
顔を隠すみたいに、ハードカバーの文芸書を読む『ふり』をしていた。
……不都合なことに、大井町さんが、そのハードカバーの文芸書が気になったらしく、
「ヴァージニア・ウルフって、そんな作品も書いてるのね」
と言ってきた。
大井町さんのほうから、会話の先制パンチ。
珍しいっていうレベルじゃない。
「わたし、『ダロウェイ夫人』しか、読んだことがないの」
そう言いながら、ハードカバーに視線を注いでくる大井町さん。
わたしは、ハードカバーを持つ手を震わせながら、
「だ、『ダロウェイ夫人』読んでれば、じゅうぶんじゃないかなぁ」
と言う。
「――そうなの?」
「だ……だって。日本人の9割5分は、ヴァージニア・ウルフの本を1冊も読まないまま、一生を終えるのよ。英語圏だったら、事情は違うのかもしれないけど」
「……」
テンパるわたし。
わたしのテンパりを、冷静に眺める大井町さん。
やがて、彼女は言う。
「――焦りでもあるの? 羽田さん」
氷柱(つらら)が胸に突き刺さるみたく……ドッキリとする。
「焦り?? ……と、とーとつだなーっ、大井町さんも。なにも焦ってないよ。焦ってない、そう、焦ってない……」
……だんだん窮地に押し込められていくような感覚。
大井町さんの表情は、変わらない。
――秋葉さんが、ぱたん、とノートパソコンを閉じて、席から立ち上がった。
見かねて……なんだろうか。
秋葉さんは言う。
「羽田さん。外の美味しい空気でも、吸いに行こうか」
× × ×
「……大井町さん、ひとりぼっちで、かわいそうかも」
「そんなことないと思うよ。彼女、いろいろ『わかっちゃってる』から、きっと」
「『わかっちゃってる』……?」
「わたしが、羽田さんを外に連れ出したのも、自然な流れだったって……そういうふうに、把握してるはず」
「空気を読んだ、ってことですか……彼女が」
「そうともいえるかもねえ」
学生会館近辺の、並木通り。
冷たい空気のなかを、秋葉さんとわたしは歩き続ける。
「……わたし、ダメダメなんです」
「気落ち?」
「……はい」
「なんで?」
「こんなところじゃ……言えないです」
「じゃ、どこだったら気兼ねなく言えるのかな」
「それは……」
押し黙るわたし。
「追い込むつもりは……なかったんだけど。結果的に、追い込んじゃったか、あなたを」
いつの間にか、秋葉さんの声付きが、やわらかくなっている。
サークルでの振る舞いとはかけ離れた……もうひとつの秋葉さんの側面が、出てきている。
優しく包み込むような口調で、
「つらい気持ちなんだよね。つらい気持ちになる原因は、千差万別なんだけど……とにかく、あなたは、いま、つらい。……抱え込んじゃってる感じ、かな?」
胸があったかくなる、秋葉さんのことば。
打ち明けたく、なるけれど。
けれど、わたしは、なかなかことばを口から出せずに……。
「――あそこにアイスクリーム屋さんがあるんだけど」
「……はい?」
「ちょっと待ってて、羽田さん。アイスクリーム、買ってきてあげる」
えっ。
「アイスクリームは――冷えちゃう」
「頭を冷やせる効果がある、とも言える」
「……ほんとうですか?」
「疑ってる?」
「……かなり」
「もっと信じてくれてもいいのに」
「……すみません」
立ち止まり、優しさにあふれた、苦笑いで、
「だれに対しても――そうやって、素直に謝れたら、ステキだよね」
ハッとした。
「素直に謝れたら」という彼女のことばが、あたまのなかを、駆け巡り始める。
素直に、謝れたら……。
もしかしたら。
秋葉さんは……『わたしがだれかとケンカしている』ということを、見破ってしまっているのかもしれない。