加賀くんには謝った。
その場はいちおう丸く収まった。
だけど、ギクシャクしてる感じはまだ拭えない。
邸(いえ)に帰っても、加賀くんに対して調子に乗りすぎだった……という反省の念に包まれていた。
学校でわたしが、さいきんやたらチヤホヤされてるとか憧れられてるとか、そういう意識はどこかに飛んで行った。
ダメな先輩――だという自己嫌悪がつのり、自虐的なことを考えながらおねーさんの作った夕ごはんを食べた。
「ごちそうさま」を言ったあとで、
「おねーさん……ごめんなさい」と言い添えるしかなかった。
「え!? どーしたの、あすかちゃん」
「おねーさんの料理を味わうことに……集中できなかった」
「……物思いなの?」
おねーさんの助けを借りるより、じぶんでなんとかしなきゃ、という思いが強くて、
「部屋で、頭を冷やしてきます……」
とダイニングを脱出した。
じぶんの部屋で考え込んでいても、落ち込みから回復するわけでもなかった。
校内スポーツ新聞の文章を書いていたら気を紛らせられるんではないかと思って、PCを起動させた。
でも、あまり気の利いた文章が書けない。
ドラフト会議総括記事のための文章も、途中で書き続けるのにウンザリしてきて、半端なところで投げ出してしまった。
わたしはあっけなくPCを離れて、床にお尻をつけ、ベッドの側面にもたれかかり、ポムポムプリンとシナモロールのぬいぐるみを同時に抱きしめた。
そしてうつむき続けた……。
カーテン開けっぱなしの窓をチラッと見たら、窓が黒々としていて、わたしのいまの気持ちにそっくりだと思った。
× × ×
翌日。木曜日。
低いテンションで授業を受け、低いテンションで部活をした。
加賀くんが、きのうの一件を気にしていなさそうなのが、逆につらかった。
ヒナちゃんが差し出してくれたアーモンドクラッシュポッキーも、3本しか食べられなかった。
『ごめん……みんな。あしたは、金曜日は、なんとか持ち直すからね』
こんなことばを、こころのなかで、呑み込んだ。
呑み込んで、言えないままに、下校時刻がやって来てしまった。
× × ×
「お~い、あすか」
その日の夕食後、じぶんの部屋に逃げ込もうとしたら、背後から近寄ってきた兄に、呼びかけられた。
「なんでそんなナーバスなんだ?」
「ナーバス……って」
「きのうの夜あたりから、挙動がおかしいじゃんか」
「……おかしくないよ」
「なんだか、ぎこちない。あるんだろ、気がかりなことでも」
歩を進め、距離を遠ざけようとするわたしに、兄は、
「――推薦入試のことで、なんか悩んでるんか?」
「……そうじゃない」
違う。違うよ、お兄ちゃん。悩みはそんなことじゃないよ。
「ふーむ……もっと違った悩み……か」
「お兄ちゃん。」
「ん~?」
「わたし、いま、とってもデリケートだから……そっとしておいてくれない?」
「――思春期、か」
「それは……どうかな」
曖昧な濁しことばで……ずんずんと、じぶんの部屋に行くための階段に、向かっていく。
× × ×
電気をつけないまま、部屋のなかで丸まっていたら、泣きそうになった。
× × ×
21時を過ぎている。
リビング。
斜向かいのソファに座る兄はテレビ画面に集中している。
わたしはそんな兄を眺めている。
兄はあまりにもテレビ番組に集中していて、わたしの視線を察知していない様子だ。
よくない。こんなのは。
こんな距離感のままだと……ひたすら歯がゆい。
だからわたしは、腰を上げた。
兄の右隣まで移動して、勢いをつけてソファに着座した。
さすがに兄はわたしの動きに気がついて、
「――なんで隣に来た?」
「――距離感の、問題。」
「意味がわかりかねますが、あすかさん」
「わかんなくたっていい」
「そういうこと言われたら、なおさら、隣に来た理由を、考えたくなってくる」
「……あっそ」
ふたり無言で、テレビ番組をしばらく見続ける。
その番組が終わると、兄は姿勢を崩し、ソファにだらしなく背中を預けて、
「なあ。あすか、おまえ――」
「……」
「――甘えたいんだろ、おれに」
「キモっ」
「おれに、なにかしらしてほしい……っていう気持ちは、あるんだろ?」
うまく……リアクションできない。
「甘えたいんだろ」と言われたら、条件反射的に「キモっ」と言ってしまって。
そういうやり取りは、けっきょくいつもと変わらない。
堂々巡りは……いいかげん、やめにしたいのに。
せっかくお兄ちゃんと隣同士なのに……素直になれない。素(す)でかかわり合うことが、できない。
悲しい気持ちになってきた。
この悲しい気持ち……隣のお兄ちゃんに伝わらないかな……。
沈み込む気持ちと、『いまのこの気持ち、お兄ちゃん、気づかないかな……』という淡い期待が、ないまぜになる。
「――こんがらかってる顔だな」
ふと、お兄ちゃんが言った。
「人間関係でこんがらかって、そのせいで感情もこんがらかり通し――ま、そんなとこだろう」
「……よくわかったね。人間関係が、原因だって」
「部活でなんか揉めたんだな」
「当たり」
「引きずるのは、よくないぞ」
「当たり前じゃん……」
「詳しく教えてくれんか。話せば楽になる、ってことも多い。なにより、こころが荒れっぱなしだと、推薦入試にも悪い影響を与えちまう」
恥ずかしくなるぐらい、お兄ちゃんの言うとおりだった。
お兄ちゃんは、正しいことしか、言っていない。
だけど……なかなか、素直になりきれず、
「こころの準備ができてない……」
と弱く言ってしまう。
「……わかってるよ、お兄ちゃん。ぜったい、話したほうが、いいんだってことは。でも……でもね……」
弱い。
弱すぎ、わたし。
弱すぎて、眼を閉じて、お兄ちゃんの顔に、向き合えなくて。
「――わかったよ。」
強いお兄ちゃんは、力強く、そして優しく、わたしの甘えを受け止める。受け止めてくれる。
「あすか――」
「……うん、」
「肩でも――ほぐしてやろうか? どうせ、こってんだろ。おれは、こわばったからだをほぐすのは、得意なんだ」
顔が、赤くなっているのを、自覚しつつ、わたしは、
「……おねがい」
と、ふにゃけた声で、言うのだった。
お兄ちゃんに、助けられること。
助けられて、恥ずかしくもあり、嬉しくもあり。
恥ずかしさ3割、嬉しさ7割。
助けられる嬉しさのほうが大きい。
時間はかかったけど……ようやく、気づけた。
ありがとね……お兄ちゃん。