期末テストが近い。
放課後。
わたしが教室から出て、廊下を歩いていると、
「あれ、下関くんだっ」
階段の片隅で、下関くんが、問題集を開いて、勉強していた。
下関くんは、文武両道の優等生だ。
偏差値は、東大に行けるレベル。
わたしの高校で、東大や京大を狙うことのできる賢い生徒は、比較的めずらしい。
そして、スポーツでも優秀で、ボクシング部で活躍している。
――うん、やっぱ、文武両道。
でも――、
「なんで、下関くんは、階段なんかで勉強してるのー?」
疑問に思い、
当人に疑問を投げかけてみた。
わたしの顔を見上げた下関くんは、何秒間か無言のあと、
「児島が…いるから。児島が…教室にいるから」
わたしと、下関くん&児島くんは、べつのクラスだけど、
下関くん&児島くんは、同じクラス。
「…そんなに児島くんと同じ空間にいるのがイヤなの?」
「ああ」
下関くん、即答。
彼、以前から、児島くんを嫌ってたんだっけか。
「環境が悪い。きょうも、放課後になるなり、児島の周囲に女子が寄ってきて――」
「それで、にぎやかだったけど、うるさかったんだね」
「とても自学自習できる環境ではなかった。児島が悪い」
まーねー……。
女子を侍(はべ)らせているというか、なんというか……。
案の定、わたしとべつのクラスになっても、児島くんは児島くんなようだ。
「……児島くん、なにか『大きな間違い』を、起こさなきゃいいんだけど」
わたしはつぶやいた。
「え?」と下関くんが訊き返す。
「あ、勘違いしないでね、児島くんの肩は持たないから」
「……」
問題集に眼を凝らしながら、
「……だよな。だれも、あんな奴の、肩なんて持つわけない」
嫌悪感を表明する彼。
問題集とにらめっこする顔が、険しくなっている。
「――教室に居たくないからって、こんなところで勉強しなくたっていいのに」
わたしはこう、ことばをかける。
「下関くん。期末前だけど、ボクシング部には行くんでしょ? 確認だけど、5時15分になったら、わたし取材に――」
「スパーリングを見に来るんだったろ。ちゃんとおぼえてる」
「すごいね。よくおぼえてるね。記憶力いいね」
「そんなことはない」
「あるよ。わたし、下関くんの偏差値知ってるもん」
「記憶力イコール偏差値じゃないだろ…」
「…そうだね。ごめんなさい」
わたしの素直すぎる「ごめんなさい」に、下関くんが面食らう。
「……取材。
きょうは、『取材拒否』! とかには、ならないよね。
ならないって、信じてるよ」
むかし、あったのである。
ボクシング部の練習が苛烈(かれつ)を極めると、部外者に覗きに来てほしくないということで、取材拒否。
取材拒否されたときは、どうやって紙面を埋め合わせようか、かなり悩んだ。
真剣なのは、わかってるけど、取材拒否をしてくるのは、下関くんのボクシング部だけ。
「――取材拒否をするのなら、もっと前もって知らせておく」
「けど、あのときは、ドタンバキャンセルだったよね?」
いっしゅん口ごもった下関くんだったが、
「――方針を、変えた」
なるほどね。
「ボクシング部は――あすかさんを拒絶したりはしない。
きみが来て――喜ぶ部員もいる」
あら~、そうなの~。
「……そのニヤけ顔はなんなの、あすかさん」
「殺伐としてる子ばっかりだと思ってたのに、ボクシング部」
「それは勘違いだな。根(ね)は温厚な部員も多い」
「そっか。わたし、誤解しちゃってたか」
「スパーリングになったら……鼻の下を伸ばしている場合ではなくなるが」
「そりゃそうだよね」
× × ×
撃たれて、撃ち返す。
激しい拳(こぶし)のぶつけ合い。
いつになく、壮烈なスパーリング。
ここまで壮烈で壮絶な撃ち合いを見せられたのは、わたしがボクシング部を取材するようになってから、初めてだった。
…『はじめの一歩』って漫画、わかるかな。
あの漫画で描かれている試合が、ダブってくるみたいな感覚。
つまり…『はじめの一歩』の試合作画が、リングのなかに立ち現れてくるみたいな…感覚なんだけど、
やっぱり、わかりにくい喩(たと)えだったか。
――リングの上の下関くんが、押し始めた。
どんどんスパーリングの相手の子を、攻めていく。
攻めて攻めて攻めて――攻めていく。
撃たれた相手が、ふらつく。
下関くんは無言で構え続けている。
眼を――逸らすことは、できない。
苛酷な光景だからこそ、見入ってしまう。
リングに眼は釘付けで、取材のメモをとることも忘れる。
× × ×
リングサイドにもたれる下関くん。
その、背中に、
「取材拒否じゃなくって――ほんとに、よかったの」
と声をかける。
まだ呼吸を弾ませている彼は、
「あすかさんが来てくれたら……モチベーションアップにもなるし」
そこでいったんことばを区切って、スポーツドリンクを口に流し込み、それから、
「きょうのスパーリングは……ぜひともきみに、見せたかった」
えっ。
「こうやって、激しい練習ができるのも……残り少ないから。もうじき、引退だから」
「……ホンキのところを見せてから、引退したかったの?」
「だいたいあってる」
「……」
そっか。
「……ホンキすぎるぐらい、ホンキだったと思うよ。さっきの、下関くん」
「……ありがとう」
リングから降りて、グローブを外しながら、
「あすかさん――『もうひとつの理由』を、言っていいか」
「――えっ??」
「……この学校で、きみのお兄さんにあこがれる人間は、多い。おれも、そのひとりだ」
「初耳だよ……」
兄にあこがれる人間がなぜだか大勢いるらしい、ということは、既に把握済みではあったが、
「下関くんまで、あこがれてたなんて、初耳。びっくり」
「だって、」
彼はタオルで汗を拭きながら、
「きみのお兄さんも――ボクシング経験者じゃないか」
「――経験者、ってほどじゃあないと思うな。中学の一時期、ジムに通わせてもらってただけ」
ジムに通うことで、兄は強くなっていった。
でも、競技者になったわけじゃない。
「兄は――ボクシング部の手伝いだけは、お断りしていた、って言ってたよ。
兄なりに思うところがあったから、だと思うけど――。
だいいち、兄はリングに立ったことはないんだし。
下関くん、
それでも、あこがれる理由って――なんなの」
「――色々さ」
「ごまかしちゃうなんて、下関くんらしくない気も」
「スパーリングが、こたえているのかもしれない。具体的な理由を、思い浮かべる余裕が、ない」
「……」
「それでも」
「それでも、?」
「お兄さんに……アツマさんに、追いつきたくて、こうやって拳(こぶし)を振るっている」
「追いつきたい、って下関くんは言うけど。…わたしから見たら、とっくにお兄ちゃんなんて、追い越してるよ」
「どうして?」
「お兄ちゃんは、文武両道じゃなかったし。下関くんは文武両道のスーパースターじゃん? そこの、違いかな」
「……あすかさん」
「なにかな?」
「軽々しく、『スーパースター』、だなんて。きみらしくもない」
「――怒った?」
「腹立たしい、に――限りなく、近い」
「だったら――『スーパースター』って言うのは、封印。新聞にも、『スーパースター下関くん』なんて見出しは、使わない」
「……うん」
「下関くん。…わたしからひとつだけ、アドバイス」
「アドバイス…?」
「もっとじぶんを、大切にしなよ」
「あすかさん……。」
「じぶんを大切にすることは、わたしの兄を追い求めるのより、ずーっと大切なことだと思うな。わたし」
『そうでしょ?』と笑いかける。
下関くんは黙ってクールダウンを始める。
屈託なく笑うこと、できてたかな? わたし。
――伝わったかな。