高校1年のとき、一度だけ、男の子とデートしたことがある。
動物園に行って、公園をブラブラして、ソフトクリームを食べて、それで終わりだった。
交際には発展せず。
デートしたことも風化(ふうか)しているから、校舎の廊下ですれ違っても、とくに何事もない。
『擬似デート』とかなんとか言って、黒柳くんをそそのかしたけど、
ほんとのデートの経験は――そのときの1回だけ。
× × ×
模擬試験の結果が返ってきた。
成績向上せず……。
ちょっとばかりでなく、つらい。
アナウンサー志望、という、
ひそかな夢、ささやかな夢。
けれどもそれは、たしかな願望。
努力して、なれるなら、努力して、目指したい。
夢は、叶えるものだと、わたしは思う。
…不安材料はいろいろとある。
わたし、偏差値、あまりよろしくない。
早慶なんて、高嶺の花。
キー局のアナウンサーなんて、学歴を見れば早慶だらけだというのに。
『早慶だけが大学じゃない、いろんなルートからアナウンサーになってるだろ』
そんな意見もあるけれど、
やっぱり、アナウンサーは……高学歴が多いと思う。
出身大学の偏差値のみならず、ルックスの偏差値も高いのが、アナウンサーというもの。
わたしはそこでも引け目を感じる。
たとえば、卒業した放送部の甲斐田センパイみたいに、華々しい見た目でありたかった。
でも甲斐田センパイのような輝かしい容姿は、望むべくもなく。
高校1年のとき、1回きりのデートをした男の子は、
わたしのことを、『かわいい』とは言ってくれなかった。
――そういうことを、思い返すと、
『本気でつきあう気なんて、彼にはなかったんだろうな』みたいに考えてしまう。
15、6歳の恋愛なんて、そんなものにすぎないのか。
× × ×
黒柳くんとふたりだけで、演劇部の有志が作ったグループ『チトセグミ』に密着取材していること。
このことは、羽田くんには秘密にすることにした。
どこまで秘密にし続けられるだろうか。
ともかく、素材を編集して、出来上がったところで初めて、羽田くんに白状して――それから、上映会を開くという流れ。
「上映会か……」
ふと、つぶやいたのは、放課後の【第2放送室】。
羽田くんがわたしのつぶやきを見て、
「上映会が、どうしました?」
「……あと何回、KHKで上映会が開けるのかなー、って」
「卒業までに、何回……ってことですか」
「ってこと。」
まだ、3年生になってから、2ヶ月たってないんだけども。
「わたし――いつまで現役でいられるかな。
引退のタイミング、いつにしようかな」
「――まだ、引退を意識する時期でもないのでは?」
「それは、そう」
…けれども、進路の問題とか、厄介ごとが少なからずあって。
進路については…この前、羽田くんにも指摘されちゃったことがあった。
視線を移してみる。
たそがれるように、右手で頬杖をついて、
過去のKHK制作番組の映像を観ている、黒柳くん。
もうひとりのKHKの3年生は――、
『引き際』のこととか、考えているのやら、いないのやら。
× × ×
「お先に失礼します」と羽田くんが帰っていった。
黒柳くんとふたりになったから、存分に『チトセグミ』密着ドキュメンタリーのことが話せる。
話せるのだが、
KHKの活動以外にも……話すことはあって。
高校3年生ならではの話題。
「…模試の結果が返ってきたよね」
そうやって、切り出すと、こっちのほうを向き、
「ぼく、現代文が50切っちゃったよ。参っちゃったな」
と苦笑いで言う黒柳くん。
50切った、というのは、もちろん偏差値のこと。
わたしは、彼みたいに、自虐的に苦笑いする気にもなれず、
「――横ばいだった、わたし」
「横ばいって?」
「グラフが横ばいってことだよ。成績が上向いてないってこと」
成績が上向かない、と彼に打ち明けた声が、うわずっていたのを、自覚した。
そこはかとない焦燥感。
その焦燥感が、だんだんと実体化していくみたいになるのを、せき止め切れなくて。
勝手に、自分ひとりで、切羽詰まりに詰まっていくわたしは、
苦し紛れに、
捨て台詞で、
「――また、立教が、Cだった」
と、余計な情報を開示していく。
「……それが、板東さんは、悔しかったの?」
ピントのズレたことばを返す黒柳くん…。
悔しくなんかないよ。
悔しいより、もっと由々しきこと。
立教クラスの大学が、受かる・受からないの瀬戸際だってことが、
わたしのメンタルをむしばんでくるの。
切実なの。
捨て台詞にも……ちゃんと意味はあった。
切実な気持ちが、滲(し)み出ていくような、
「立教がC」だっていう……そんな、リアルな、打ち明け。
その打ち明けのニュアンスが、どれだけ黒柳くんには伝わっているのか?
「立教がC」ということばの裏の、悔しさよりももっと、切実な感情。
たぶん……伝わってはいない。
表面上は、投げやりな言いかただったから、
シリアスになんて、受け止めてはいないはず。
シリアスな思いをぶつけ切れなかったわたしも悪い。
悪い、というか、
黒柳くんに、わたしの内心を、さらけ出してみたって、
進路に対する、ヒリヒリとした感情を、彼に吐き出したって、
仕方がない。
仕方がないし、甲斐がない。
本格的な進路相談なんて、するつもりない。
彼は、黒柳くんは、KHKの仲間ってだけで、
わたしの赤裸々(せきらら)な部分、デリケートな部分を見せるような、
そんな対象じゃない。
わたしと一緒に放送部から離反(りはん)して、KHKで一緒に作業してるだけの、男の子。
余計な感情なんか、見せたことなんてないし。
夢だって、
そう、夢だって――彼には、隠したまま。
アナウンサーになる、夢だって。
もしかしたら、わたしは、
『アナウンサーになりたい』
って彼に言うのが、
家族に言うよりも、ずっと……怖いのかもしれない。
わたしのプライベートな領域に、踏み込ませたくないから、
クラブ活動で共同作業しているだけの間柄(あいだがら)でいたいから、
だから、かえって……将来の夢のようなものに気づかれることが……いっそう、怖くなる。
さとられたく、ないんだ。
わたしの胸の奥を、さとられたくなくって。
彼をよくからかったり、茶化したりするのも、
踏み込まれたくない、反動なのかな…。
そうなのかもしれない。
…立教C判定発言をしてしまって、からかう余裕も茶化す余裕もない。
そんなわたしの内面を…たぶん認識することもなく、
「立教かー」
軽々(かるがる)とした口ぶりで、黒柳くんは言う。
わたしは黙りこくり続けている。
「立教っていえば――」
何も知らない顔で、
わたしの夢も知らない顔で、
黒柳くんは言ってくる、
「立教卒で、アナウンサーの人、けっこういるよね」
と。
黒柳くんに、罪はない。
いまだかつて『アナウンサーになりたい』とわたしが言ったことがなかったからこそ、
『アナウンサー』ということばを、平気で言い出せる。
アナウンサーにまつわる話題を、無邪気に言い出すことができる…。
そんな彼を、
卑怯だとは思わないし、
意固地に自分の夢を包み隠すわたしのほうが、むしろ卑怯かもしれなくって、
だから、だから――、
痛みを感じるぐらいに、胸の締め付けがキツくなっていって――、
ギュッと息詰まる感覚を、
絶対にさとられたくないから、
わたしは、黒柳くんの顔に、
まったく焦点が合わせられなくなる。
向かい合っているようで、向かい合っていない。
そんなコミュニケーションしかできないわたしを、
わたしは、死ぬほど呪って、
死ぬほど呪うけれど――、
あしたの放課後には、
また、元通りになる。
黒柳くんとの、うわべをなぞるような関わりかたが……、
食傷気味なぐらい、ループしていく。