サークル部屋にあった、少年チャンピオン・コミックス『ドカベン』第31巻を、何気なく読んでいると、
「おっ、『ドカベン』の31巻だ」
2年生の郡司(ぐんじ)健太郎センパイが、反応を示してきた。
「おれは漫画のことはあんま詳しくないけど、スポーツものなら多少知ってるんだ」
郡司センパイは、
『漫画目当てでなく、ソフトボール目当てで入会した』
と公言していた。
漫画に重きを置くひともいれば、
ソフトボールに重きを置くひともいる。
「その31巻って、センバツ決勝の、明訓対土佐丸だよな」
「よくご存知ですね、郡司センパイ」
土井垣将は明訓高校の監督になり、
犬飼小次郎は土佐丸高校の監督になって、
前年夏の準決勝以来、宿敵同士が再び相まみえることになったのである。
いきなり里中くんがかわいそうになるところから第31巻が始まるのだが、
山田・岩鬼・里中・殿馬、それぞれの過去が明かされていくなど、いろいろと集大成的な要素の強いのが、この第31巻なわけなのである。
そして、この単行本版31巻を、もっとも特徴づけているのが――、
「――やたら分厚いんですよね、31巻だけ」
ふつう、いわゆる『新書サイズ』の漫画の単行本って、200ページ行くか行かないかぐらいの厚さだと思うんだけど、
少年チャンピオン・コミックス『ドカベン』31巻は、例外的に分厚い。
明訓と土佐丸の決勝戦の決着がつくまで収めたかったから、だと思うけど――、
70年代後半だと、特定の巻だけ異様にページ数が増えるのって、斬新じゃなかったのかしら。
もちろんわたし、漫画史! とか、1ミリメートルも詳しくないんだけどもね。
「羽田も、やっぱりそう思うよな」
31巻だけ分厚いというわたしの指摘に、郡司センパイが乗ってきてくれる。
「ずいぶん前に読んだきりだ。どうやって、決着がついたんだっけ?」
「それ言うとネタバレになっちゃいますよ、郡司センパイ」
「そうかなぁ」
いま、サークル部屋にいるのは、わたしと郡司センパイのほかは、2年の高輪ミナさんと、3年の久保山幹事長。
「幹事長も、読んでますよね? 『ドカベン』」
郡司センパイが振った問いに、
「読んでる。明訓と土佐丸のセンバツ決勝はどういう試合の流れだったのかも、記憶してる」
「さすがですね、幹事長」と郡司センパイは言って、
「なら、幹事長に対しては、ネタバレを遠慮する必要ない。
だとすると残るは、高輪に対する、ネタバレの配慮……」
郡司センパイがミナさんに振り向く。
ミナさんは、少し視線を高くする。
見つめ合ってる感じのふたり――実は、高校の同級生であったところの、ふたり。
「ただ、高輪、おまえなら、別に『ドカベン』のネタバレをされたって、不都合が発生するわけでもない」
高校からのつきあいだから、もろもろ把握してるんだ……というような口ぶりの、郡司センパイ。
「だったら、羽田が『ドカベン』のネタバレを言ったところで、少なくともこの空間には――、困る人間、いない」
そう言って、もう一度わたしに向き直ってくる。
第31巻の結末を、どうぞおれに言っちゃってください……的な意思表示の、顔。
センパイが、ネタバレをむしろ所望(しょもう)するのは、ごもっとも。
だけれども、
「――この空間には、ネタバレ言われて迷惑するひとはいないでしょうけど。
でも――この空間『じゃないところ』で、いきなりネタバレされてガッカリするひとも、いるかもしれないので」
「え……羽田が言ってる意味が、いまいち……」
……まあ、わたしがいうところの、ネタバレされたら困るひとって、
とどのつまり……本ブログを閲覧してくれている方々のこと、なんですけどね。
ブログの読者がいる、という意識を欠いてはならない。
いま現在の、サークル部屋でのやり取りが、文字になって、ブログ記事として、閲覧者に提供されるわけで。
そういう側面にも、気を配らなきゃならないわけで。
……そんなことを思ってるのは、当然、ブログの語り手であるわたしひとり。
『なにを言ってるんだ』的な眼で、郡司センパイが見てくるのも、当然至極。
わたしは、曖昧に笑うしかない。
まあそれでも、『上手くやる』しかないから、
「どうしても――明訓・土佐丸の結末、知りたいですか?」
「……」
「知りたいみたいですね。
わかりました。
試合に決着をつけたのがだれか、教えますけど――、
このネタバレは、文字にはしません」
「……文字にはしません、って、なに」
「ひとこと多くてごめんなさい、郡司センパイ」
許して。
× × ×
ピアノのために、自分の指を改造する……執念。
× × ×
「羽田さんもドカベン語れるんだな」
「たまたまです、幹事長」
「たまたまでも、すごいよ」
「ほんとうにたまたま、書庫に、単行本が全部あったから、なだけなんで」
「……書庫??」
「わたしが居候してるお邸(やしき)の地下に、書庫があるんです」
「居候?? お邸?? 地下に書庫???」
幹事長だけでなく、郡司センパイもミナさんも、眼を見張っている。
無理もない。
わたしの諸事情、
一から説明し始めたら、
『ドカベン』の31巻みたく――長くなっちゃうけど。
「――この際だから、まるっきり、説明しちゃいましょうか、わたしの現在の環境を。
どんな暮らしを、だれとしているか――ってことを。
長話になりますけど――構いませんか?」
「――構わないよ」と幹事長。
「興味深い」と郡司センパイ。
「知りたい、わたしも」とミナさん。
みんな、寛大だ。
尊敬しちゃう。
× × ×
そして、ひとしきり、話し終えた。
なぜだか、ミナさんが、眼を輝かせている。
わたしの身の上話に、彼女がいちばん、こころを動かされたみたいになってる。
「……すてき。」
「すてき……ですか? わたしの、生活環境……」
「あたりまえだよっ!」
ミナさん、これまでになく、明るく大きな声を……!
「ロマンだよ羽田さん。わたしロマン感じる、羽田さんの暮らしに」
「暮らしが、ロマン……!?」
「――ねえ、郡司くん、わたしと席、交換して?」
予想外の積極性で、席をスイッチして、
わたしの席と距離を詰めてくる。
「もっと羽田さんとお話したいよ」
予想外すぎる、積極性。
「わたし――行ってみたいかも。そのお邸(やしき)」
ミナさん!?
「そんなにビックリさせるようなこと言ってる? わたし」
「い、いえ。でも、いきなり積極的ですね、ミナさん――」
「楽しそうなんだもん。あなたのお邸(やしき)」
彼女の声が弾みに弾んでいる。
「――単純に、あこがれるの」
「あこがれ――」
「毎日が非日常みたいな、楽しい暮らし……」
「……そう思います?」
「楽しんでるでしょ? 実際、あなた。
ただ単に生活するだけじゃなくって、
いろんなひとと、交流したりして、
しかも、
なにより、恋をしてるひとが、いつもとなりに、いてくれる」
「……」
「あれ、羽田さんが、固まっちゃった」
「……、
固まって……ませんけども」
「『アツマくん』」
「……はい。」
「とっくにわたし、知っちゃってた」
「……はい。」
「ごめんね。
でも、そういうものなんだよ」
「……はい。」
「『……はい。』しか、言えなくなっちゃったね。だんだん声も、消え入りそうになって……」
わたしは、ボショリと、
「ミナさんを…なめすぎていました」
「あ~っ」
「…ひとつ違いの年齢差って、大きいですよね。
負けた…」
「あ~っ」
「…『あ~っ』が、口ぐせだったんですか」