『彼』はそこにいる気がした。
最近、忙しそうだったから。
忙しい、というのは――たとえば、音楽準備室での雑務とか、そういうのにも追われているんだろうって、なんとなくではなく、はっきりと想像できた。
ずっと――荒木先生の授業を受けて、荒木先生を見てきたから。
『期待』は、あった。
『期待』が、あったっていうのに、
いざ、音楽準備室に近づいて、物音がするのを察知すると、怖気(おじけ)づき、足がすくむ。
荒木先生、いるんだ。
ほんとうに、いるんだ。
音楽準備室で、雑務してるんだ。
× × ×
自分の意志で、自分のちからでなんとかするって、そういうことを、きのう愛に言ったじゃないか!
じゃなきゃ、なんでバイオリンケースをわたし、携えているのか。
行け、青島さやか。
突っ込め、
突っ込んでいけ。
……でも、決意するたびに、逡巡(しゅんじゅん)して、
気づけば約30分、そこに立ち尽くしていた。
音楽準備室の扉が開く気配がない。
ずっと作業してるんだ――中で、おそらく、荒木先生が。
先生って、タイヘンなんだな。
今更だけど。
――、
そう思ったら、
不思議と、自分の当初の目的よりも、「荒木先生をいたわってあげたい」という気持ちが強くなって、
扉を叩く勇気が湧いてきた。
× × ×
勢いこんで扉を3回ノックする。
『はーい』という荒木先生の声がしたかと思うと、先生が近づいてくる足音がして、扉が動く。
扉を開けた荒木先生とまともに向かい合う。
距離が近すぎて、心臓がジャンプしそうになるけれど、ここで後ずさりしちゃダメだって、自分に言い聞かせる。
眼を見て、話そう。
「青島さんじゃないか。どうしてここに?」
「あのっ、先生が、先生がっ、たっタイヘンそうだったので」
「そもそも、音楽準備室にぼくがいるって、どうしてわかったの」
笑顔で見てこないで、先生。
返事に困るから。
「それは……」
「それは?」
「……」
「……」
切り札、切るしかない。
「……女子のカンです!」
「――まぁ、放課後にここに来ることは多いからね。
にしても――するどいね」
× × ×
中に入って、無造作にカバンと、それとバイオリンケースを、置く。
「だいぶ片付いちゃったから、手伝ってもらう必要も、実はあんまりなくってさ」
それは事実だった。
机の上が綺麗になっている。
棚も、かなり整頓されている。
わたしの出る幕はない。
だから――、
「じゃあ……お話ししましょう」
「立ったまま?」
「わたしは立ったままでいいです」
「なら、ぼくも立ってるか」
「先生。
先生に、言いたいことがあるんです」
「ふむ」
「先生、
わたしは、
先生のことが―――――――心配です」
苦笑しながら、
「生徒に心配されちゃうなんて、情けないね」
「だって、いろんなことに、振り回されてるみたいだから」
「具体的には?」
「……出張とか。」
「教員なんだから、出張はそりゃーあるよ」
「でも、せっかく『6年劇』の作曲してくれたのに、先生が出張してたから、収録現場でわたしの演奏、聴かせてあげられなくって」
「仕方ないよ、仕事なんだから、出張は。
それにぼくは劇をちゃんと観た。だから、青島さんの演奏するBGMは、いまも耳に残ってる」
「……それじゃダメなんです」
「え?」
「わたしが演奏するのを、眼の前で見てくれなくちゃ、あの曲は完成しないと思うんです」
「――ぼくが?」
「だって、だって、先生が作った曲なんだから!」
飛躍してるのは、わかってた。
無理矢理なロジックで、わたしのエゴに先生を引き寄せている。
ただ、先生にバイオリンを聴かせたい一心(いっしん)で。
「……『先生のことが心配だ』っていうのは、本心です。
このまま先生を放っておいて、卒業するわけにはいかない」
これも――なんて独りよがりなロジックなんだろう。
「わがままなのは、わかってます。
でも、きょうぐらい、いまぐらい、わがまま言わせてください、
お願い」
「別にわがままなんて思わないけど……」
いくぶん、疑わしげな顔になったかと思うと、
「……青島さん、
なんかヘンなものでも食べた?」
どうして……、
どうして、
どうして、
どうして、
どうして!!
「なんでそこでボケちゃうの!? 先生」
わたしのわがままに火がついて、
気づいたら怒鳴っていた。
「肝心なところだったのに。
話の腰、折らないでよ。
こんなにわたしは先生のこと想ってるのに。
年がら年中、先生のこと考えて、先生を見続けてるのに。
少しも先生わかってくれない。
わかってくれた試し、ないじゃない。
わざわざ劇の作曲を先生に頼んだ理由、ちゃんとあるんだよ。
まだ先生には言ってないけど。
言う必要もないみたいだけどね。
わたし、先生のこと、キライになってきた!!」
わめいた。
先生と出逢ってから、4年。
その4年分、わめいた。
あることないこと、全部、先生にぶつけたかった。
攻撃的なことばを浴びせ続けながら、バイオリンを取り出して、持つ。
ことばにならない、ことばの体(てい)をなしていないわたしの罵詈雑言(ばりぞうごん)に、『彼』は怯(ひる)み続けている。
「聴いてよ」
バイオリンを構えながら、『彼』を見すえる。
同意を求める気もなく、わがままの最高潮に達したわたしは、ひとりでに『彼』が作った曲を弾き始めている。
――放心状態で、わたしは弾き終える。
人生でいちばん、メチャクチャな演奏。
へなへなと、崩れるように、床にヒザをつける。
バイオリンと弓を、スカートの上に載(の)っける。
気づけば涙がボロボロこぼれる。
「先生……ごめんなさい、わたし、『キライ』って言っちゃった……。取り返しのつかないこと、いっぱい言っちゃった……。」
「取り返しがつかなくなんかない」
「嘘言わないで。もっと素直でいいのに……」
「青島さん。
キミみたいに本気でぶつかってくる教え子は――はじめてだ」
「あたりまえでしょ」
泣きじゃくるわたしの1メートル前で、先生は体育座り。
1メートル前が、曇って見えない。
「先生。荒木先生」
「うん」
「…手を貸して。立ち上がれないから」
「うん」
荷物をまとめて、扉に向かう。
「さよなら」
わたしは挨拶する。
× × ×
「またあした」が、言えなかった。
どうしても、言えなかった。