日曜日。
勉強を教えてもらいに、アカ子のお邸(やしき)にやってきた。
「ようこそ~ハルくん」
例によって、蜜柑さんが出迎えてくれる。
「アカ子は――」
「なにしてるんですかね」
「え」
「――もしかしたら、部屋をきちんとするのに手間取ってるのかも」
「あー、掃除ですか」
「紅茶でも飲んで、待ちますか?」
そのとき、アカ子が階段をバタバタと駆け下りてきた。
「い、いらっしゃいハルくん」
「おはようアカ子」
「お嬢さま、なんで今日はそんなドジっ子風味なんですか?」
「ドジっ子風味ってなによ蜜柑」
「ほら、なんだかドタバタしてるから」
「部屋を片していたのよ」
健気(けなげ)だなあ……。
「そんなに几帳面にしなくったって大丈夫だって」
そう言ったら、少しムッとなって、
「几帳面にし過ぎるぐらいが……ちょうどいいのよ」
まあなぁ。
「……行くわよ、ハルくん」
そして、おれに背中を向ける。
× × ×
「そこは蜜柑の部屋!」
「あー悪い悪い、間違えた」
ここ、蜜柑さんの部屋だったのか。
「あなた……わたしの部屋、来たことあるわよね?」
「あるよ」
「どうして部屋の入り口を間違えるのかしら」
「久々に階段上がったし、それに記憶力がちょっと鈍いんだ」
ホントに? と言いたげな、疑問に満ちた表情。
素(す)で忘れたんだけどなー。
「えーっとじゃあこっちか」
「そっちには行かないで!!」
喚(わめ)くアカ子。
行っちゃいけない不都合ななにかが、あるらしい。
まぁ、いろいろと……デリケートなんだろうな。
「あなたを誘導するだけで、こんなに疲れるなんて」
ベッドに腰掛け、くたびれるアカ子。
一生懸命整頓したのがうかがえる部屋だった。
おれは勉強机の前に座っている。
「――親御さんは?」
「部屋に入ってきて最初のことばが、それ!?」
「――べつに他意はないよ」
「――夜まで帰ってこない」
「いそがしいんだね」
「……どうかしら」
「アカ子は文系だっけ理系だっけ」
「いちおう、文系」
「どこ受けるの?」
なにげなくそう訊いたつもりなんだが、
アカ子は急に姿勢を正して、
「受けるというか……受けてる、というか……もう受かってる、みたいなものだわ」
??
「エッそれはどういう」
「ハルくん、
【指定校推薦】って知ってるかしら?」
「知らない」
「…あらかじめ指定校推薦っていう枠があって、成績が良ければ、学校の代表として推薦してくれるのよ。それで、滅多なことがない限り、その大学には入ることができる」
「あー、きみがその枠で推薦されたってことか」
「呑み込みが早くて助かるわ」
「それはおめでとうだなぁ~」
「……気が早いのは心配だけど」
「でも、ほぼ受かってるんだろう?」
「ひと足お先に、みたいで、申し訳ないけれど。
でもそのおかげで、心置きなく、あなたに勉強を教えることができる」
「やることなくなっちゃうもんね」
「そういうことよ」
「――どの大学に?」
なぜかアカ子は遠慮がちに、
「港区の――」
「それじゃあわかんないって」
「山手線でいうと、田町――」
「――が、最寄り駅?」
「それから、都営地下鉄ってあるでしょう、都営なんとか線って言うじゃないの、ほら……」
「三田線だよね」
「……そうよ、三田線よ、というか三田」
ははあ。
なるほどね。
ここで、「ニンニク入りラーメンで有名な店の本店がある」とか言ったら、かえってアカ子は「なにそれ……?」って困惑すると思ったから、
「つまり、1万円札の人の大学ってことか」
「大正解」
「もったいぶらずに初めっから言えばいいのに」
「だって……」
「学部は?」
「……経済。」
「だろうなあ」
「うちの家系は……代々そうなのよ」
「世襲、ってやつ?」
「あなた……国語の成績、大丈夫? 『世襲』だと意味合いが違ってくるでしょう」
「そこらへんが日本語ってあいまいだよね」
「いちばんあいまいなのはあなたでしょ!」
× × ×
「すごいなあ。難しくておれなんか絶対受からないよ。記念受験すらするつもりない、そのレベルの大学だと」
「…記念受験するしないは勝手だけど、どこの大学にしても、受からなければ困るのはあなたなのよ」
いつのまにか、おれのそばにアカ子が座っている。
どこからともなく? 集めてきた国語の参考書を、勉強机の上にどんどん積み上げていくアカ子。
「まずは国語。国語ができなきゃ、どの大学も受からないから」
「たしかに。わかる」
「わかったのなら勉強しなさい。わたしが懇切丁寧に教えてあげるから」
「えーっと、まずは、どれから?」
「基本の基本からがいいわね――まず、この参考書の要点をわたしが言ってあげるから、あなたはノートにそれを書きとめて」
「このノート、使っていいの」
「あなたにあげる」
「お値段高そうだけど」
「あら、野口博士(はかせ)1枚で買えるじゃないの」
「金銭感覚……」
「おかしいかしら?」
「……筆記用具は? きみのを使っていいのか?」
「どうしてそこで遠慮するのよ」
「遠慮なんかしてないけど……」
アカ子がふだん使ってるとおぼしきシャープペンを手に取り、ノックする。
ところが、芯が入っていないのか、うまく出てこない。
「アカ子、芯が――」
「ちょっと貸して」
手が触れる。
手が触れて多少ドギマギするおれをよそに、アカ子はシャープペンの芯を取り替えている。
「はい、できたわよ」
そう言って、マトモにおれの右手を握ってシャープペンを渡す。
「じゃあわたし読むから――」
「ちょい待ってくれ」
「――なにを待つっていうのよ」
「深呼吸させてくれ」
「深呼吸!?」
不審げな顔で、おれに近づいてくるから、なおさら心臓に悪い。
× × ×
「……よくこんな字で高校に入れたわね」
厳しすぎる。
容赦なし。
「文章の読みかたよりも、文字の書きかたから教えてあげるべきだったかしら」
「小学校ですか……」
「あなたのノート清書してあげる」
おれが汚い字で書いた要点を、違うページに、アカ子がきれいな字で書き直していく。
「……思い出すわ。蜜柑も字の書きかたが適当だった」
「きみは手先が器用なんだなあ」
「関係あるのかしら?」
「裁縫(さいほう)が得意だって自分で言ってたろ」
「よく知ってるわね」
「きみの得意分野は……忘れないでおきたいから。
それにあったじゃないか、きみがミニ四駆を修理したってことが。
手先が器用じゃないと、あんなことできないだろ?」
「…………受験勉強から脱線している気がするんだけれど」
「脱線ついでにさ、」
「ノートに集中してっ!」
「いや、いわせてくれ」
アカ子が詰め寄ってくるのも構わずに、おれは部屋の窓際のほうを指さして、
「あのぬいぐるみ」
バーンと机を叩いておもむろに立ち上がるアカ子だったが、あえておれは続けざまに、
「あのぬいぐるみは――アカ子のお手製なんだろ?」
ワナワナと身体(からだ)を震わせながら、
「――それがどうしたのよ」
なんだか、笑えてきてしまった。
「なにも可笑(おか)しくないでしょ!? いったいなんなのよあなた」
「おれにもつくってよ」
――たまりかねたのか、無言で窓際に移動して、ぬいぐるみ(お手製)を掴み取ったかと思うと、全力でおれに投げつけてくる。
まったく痛くない。
「大事なぬいぐるみをそんなふうに扱っちゃダメだぞ、アカ子」
「なによそれ…『ダメだぞ、アカ子』とか、まるでお父さんみたいな口調になって」
「あえてモノマネしてみた。似てるかな?」
ふてくされて、床に座り込んでしまう。
すると、ノック音。
『おじょうさま~?』
「取り込み中だから入ってこないで!!」
『あらあらまあ』
「蜜柑のムッツリスケベ!!」
× × ×
「もうハルくんも蜜柑も知らないんだからっ」
「まぁまぁ」
床座りのアカ子と同じ目線になり、
「午後からがんばろう。な? アカ子」
「……」
「おなか、すいただろ?」
「……」
「腹ペコなんだな」
「ハルくんのムッツリスケベ。」