【愛の◯◯】読めない書物 ずっと続く風景 待つ鐘の音

 

第2幕。

 

まず八洲野(やすの)さんのナレーションが入る。

 

あの女(ひと)は行ってしまった。

 船に乗るために、列車を降りていった。

 違う言語で出来てる世界、

 違う論理で出来てる世界、

 そんな世界へ――向かうために

 

『論理』、ということばが、心に引っかかっていた。

『違う論理で出来てる世界』に行く、と彼女は言っていた。

 それはいったい、どんな世界なんだろう。

『論理の違い』って、なんなんだろう

 

わたしは中途半端に本を携えて、列車に乗っていた。

 あの女(ひと)が違う世界に行ってしまって、寂しくなった。

 わたしは、書物と対話しようと思った

 

八洲野さんは本をかばんから取り出して、読み始める。

 

けれども、書物と対話するというのは、とても難しいことだった。

 書かれたこと以外に、著者はなにも言わない。

 言ってくれない。

 読んでいて思う疑問も、容易には解消されない。

 疑問が宙吊りになって、

 モヤモヤした気持ちだけが高まっていく。

 残りのページ数を気にする。

 読み終えるには先が長くて、永遠に読み終えられないような錯覚に陥る

 

× × ×

 

「寂しい情景だね」

わたしの後方で、呟くように言ったのは、たまきさんだった。

「なんか、背景が灰色っぽいし、秋から冬に変わったみたい。

 主人公が独(ひと)りで読書してるから、なおさら」

「…もうすぐ、2番目のゲストが出てくるよ」

モニターを見つめたまま、背後のたまきさんに言う。

「里美さん?」

「里美さん。」

「同じクラスなんだ」

「あら、そうだったの」

 

「羽田さん――」

「なに?」

「よかったのかな、わたしここに来て。野次馬みたいに」

「野次馬じゃないから」

苦笑いしながら言うと、

「部外者だから。浮いちゃってるかな」

「ダメだよ。そんなこと言っちゃあ。

 たまきさんは部外者じゃないよ。

『6年劇』の、仲間だよ」

「仲間意識――か」

「だってそうじゃない。アドバイスくれたんだし。立派に劇に関わってるよ」

「そういえば、そうだったねぇ」

やや間を置いて、

「――羽田さん、大変なことになりかけてたもんね」

図書館で独り相撲をとりかけていたときのことを、思い出す。

「あのときは――すみませんでした。」

敬語を使って、謝ってみる。

「なんでそんな丁寧な」

「わざと」

「わりと茶目っ気あるよね、羽田さん」

「わかる。自分でも思う」

「そんなところも、羽田さんのチャームポイント」

「あらどうも」

 

モニターに少し近寄って、たまきさんが、

「ハードカバーだよね。八洲野さんは、なにを読んでいるの?」

「そこは観客に想像してもらわないと」

「そんなもんか。……あの本は、どこから持ってきたの?」

「図書館の書庫にね、ホコリかぶった洋書があって」

「あー洋書なんだ、あれは」

「文学書よ――19世紀の。たぶん、英国の」

「文学書、か――」

たまきさんのことばに、意味深なニュアンスがこもっている。

「わたしもそろそろ――文学、読んでみようかな」

また、わたしは苦笑して、

「たまきさんは卒業まで文学に触れないつもりかと思ってた」

「マイペースだから、わたしは」

 

× × ×

 

すでに舞台上に出てきている里美さんが演じる女性も、マイペースなキャラクターといえば、そうかもしれない。

 

ロングスカートをひらひらさせて、八洲野さんに歩み寄り、

『ここ、いいかしら?』

気づいて八洲野さんが本から目を上げると同時に、里美さんが隣に腰を下ろす。

いいかしら? と訊いておいて、返事がくる前に、もう座っている。

マイペースだ、たしかに。

 

たまきさんっぽいといえば、たまきさんっぽいのかもしれない。

里美さん演じる女性のキャラ造型を考えていたときに、たまきさんを意識したわけでは、まったくない。

いまになって、本番になって、そう、思っただけ。

 

『……さみしかったんでしょ、あなた』

『どうしてわかるんですか』

 

たしかにね。

初対面だもんね。

 

『この区間は車窓(しゃそう)も単調でつまらないし。乗ってくる人も少ないし』

八洲野さんは、あたりを見回す仕草。

『――ねっ? ほとんどだれも、座ってないでしょう』

それから、里美さんに視線を移し、じっと眺めてみる八洲野さん。

『不審人物ぽかったかしら、わたし』

里美さんはおどけてみせる。

『そ、そんなこと思ってません。誤解しないでくださいっ』

八洲野さんの膝上(ひざうえ)で閉じられた本に里美さんは注目して、

『すごい本を読んでいるわね』

『…別に。すごくなんか』

『本を読むの、好きなんだ』

里美さんの問いに対して、八洲野さんは黙りこくってしまう。

『好きじゃ、ないの?』

『いえ……。

 ……わからないんです。好きかも、嫌いかも』

『じゃあ――わたしとお話ししようよ』

『いきなりなにを――』

『好きとか嫌いとか、自分でもわかんないんでしょう?

 そんなときは、いったん距離をとってみるのよ』

『本と、距離を、ですか?』

『そう。

 わたしはあなたとお話ししたいの。

 そうしなきゃ、間が持たないし。この区間は、特に』

八洲野さんは後ろを見る仕草をして、

『あとどれくらい、こんな風景が続くんですか』

『知らないで乗ってきたの!?』

『はい。始発駅から』

『あなたも勇気あるのね。

 ――ずっと続くよ』

『ずっと――?』

 

× × ×

 

リハーサルが終わったあとで、水無瀬さんに呼び止められた。

「会議室で反省会しない?」

 

 

――そして反省会もひと段落したところで、松若さんは帰り、会議室にわたしと水無瀬さんのふたりきりになった。

「久しぶりだね。ここで、ふたりきりになるのも」

「2週間前の月曜日以来だっけ?」

水無瀬さんはアハハと笑って、

「やっぱ記憶力抜群なんだ、羽田さんって」

「ほめられるのは――うれしいけど」

『水無瀬さんには、まだ語り足りないことがあるんだろうか』と、わたしは思っていた。

ひとしきり、反省はしたはずだからだ。

 

立ち上がって、窓辺を見やりながら、水無瀬さんは、

「――こっからは、劇の反省は、あんまし関係ない話になるんだけど」

「……そう。」

「聴いてくれる?」

「聴くよ。もちろん」

「――、

 わたし、大学に入ってからも、演劇の勉強続けたいの」

「ってことは――演劇専攻のあるところに行きたいのね。

 ……日芸?」

「ピンポイントなとこ突いてくるねえ」

「ごめん、ぱっと浮かんだのが、やっぱり日芸だったから」

「ま、『これまでは』第一志望、そうしてたんだけど。

 なんだか――この『6年劇』の稽古に関わっていくなかで、気持ちが変わっていって」

「志望を変えるってこと?」

「…たぶん」

「…どうして?」

「……まだ、言わないでおく」

「言いたくなきゃ……別にわたしに言わなくても」

「羽田さんには言いたい」

「……どうして」

水無瀬さんはひたすら窓辺を見ながら、

「あした、劇の本番が終わったあと。

 ――体育館裏に、来てくれない?」

体育館裏!?

「――のけぞらなくてもいいじゃない」

突拍子もない申し出に驚くわたしに、

いつのまにか、顔を向けている、水無瀬さん。

「ねえ。

 稽古の話、蒸し返すみたいだけどさ。

 稽古の終盤は…まるで、わたしから羽田さんに、イニシアティブが移っていってるみたいだった。

 わたしより…羽田さんのほうが、劇のみんなを引っ張ってた」

「それは……いろいろあったから。

 もし、わたしが出しゃばり過ぎちゃってたら、ごめんなさい」

「…『ごめんなさい』なんて、言う必要、ないのに」

「でも……」

「羽田さん。」

「……」

「ひとつだけ、質問したいことがあって、」

「……?」

「あなた、鏡で自分の顔を見るとき――、

 自分の顔のこと、どう思ってる?」

 

ど、ど、ど、どうしてそんなこときくのかなぁ

 

「うろたえないでよ。

 だって羽田さんあなた、どっからどう見たって、この上なく美人じゃないの。

 自分のこと綺麗だって、自分で思わないの?」

 

へ、へんなこときくんだね、みなせさんは

 

「『わたしかわいいし』、とか――言ってる羽田さんも、それはそれで、見てみたい」

「………………わたしそこまで性格悪くないよ」

 

「性格ブス」呼ばわりされるのは、アツマくんだけでじゅうぶんだから。

 

「個人的主観だけど…、『わたしかわいいし』って羽田さんが言ってきても、ぜんぜんイヤな感じ、ない。

 むしろ、そう言われたら、ますますあなたが美少女になる」

 

「――そもそもなんで、そんなこと質問しようと思ったの?」

「う~~ん」

そっ、そこで悩むのやめて。

「イジワル、したかったってのは、正直、ある」

「し、仕返し、って、こと??」

わたしも相当、水無瀬さんにムキになってたのは否めないから。

だけど――、

「違うよ。

『恩返し』、ってこと」

 

× × ×

 

『ずっと――って、どういうことですか。まるでいつまでも列車が停(と)まらないみたいに』

不安そうな八洲野さんと対照的に、楽しそうな笑顔の里美さん。

里美さんはヒールを履いていて、そういう部分も、里美さんの大人っぽさや、八洲野さんに対する余裕を増幅させる。

『焦らないで。

 もっとも、あなたぐらいの時期は――いろいろなことに過敏なぐらい焦って、待つことを知らないような時期なんだとも思う。

 わたしにしたって、そういう焦りや、気持ちの『揺れ』を、経験したから。

 待てないんだよね。

 でも、時には待つべきだよ。

 あちらからなにかがやってくるのを、待つの。

 すぐ答えを知りたい、結果を知りたい、っていう気持ちが――強すぎると、損になったりする』

『なにかって、いったいなんなんですか』

『いろいろよ』

『えぇっ……』

『たとえば、あなたが読んでいるその本も。

 読もうとすればするほど、本に読まれてしまう。

 それなら、この列車の終着駅まで……ずっと本を閉じておく。

 寝かせておく、というか、冬眠させる、というか……そうやって、あなたは待つ、待ち続ける』

『読まなかったら、ただの重荷です』

『ほんとうに、そうかしら?』

 

いつまで待てばいいのか。

 なぜだかわたしは、さいきん読んだ、ある戯曲を思い出していた。

 いちばん重要な人物が、ひたすら登場してこない、待ち続ける戯曲――

 

『教えてください。

 この風景が変わるのは、いつなのか、

 次の停車駅を、いつまで待てばいいのか。』

 

『しょうがないなぁ。

 教えてあげる。

 鐘の音(ね)が――やがて、聞こえてくるから』