しばらく、映画館に行っていない。
貯金はあるけど、ここ半年間、いろいろあったから。
小説もろくに読めていない。
同じ理由。
ここ半年間、いろいろあったから……。
映画を観に行くことや、本を読むこと。
好きなことが、思うようにできないのは、つらい。
最後に映画館に行ったの、いつだっけ?
――それすら思い出せなくって、
勉強机で、大きなため息をついた。
レンタルしたDVDの返却期限が迫っていた。
まだ、観ていない。
名作として有名な、何十年も前の洋画だ。
いわゆる「名画」。
延滞料金取られる前に観なきゃ。
観るとしたら、部屋にある安物のプレーヤーで再生するほかない。
諸々の事情で、家族の前とかでは、観ないようにしている。
家族の前だと――気をつかってしまう。
気をつかってしまうのにも、諸事情があるんだけど、それはまた別の話。
でも……安物のプレーヤーの、小さすぎる画面で映画を観るのは、いかにも物足りない。
映画館がいい、映画館に行きたい。
シネコンで新作を観るのでもいいし、名画座で過去の名画を観るのでもいい。
――高校生と、小学生の料金が同じだと、助かる。
なぜか?
アタシの身長が低すぎて、小学生に間違われることが、時々あるからだ。
アタシ高校3年生だっつーの。
もうちょっと、良く観察しなよ。
良く観察すれば高校生だってわかると思うんですけど。
制服着てなくてもさぁ。
身長だけで判断されても困る。
例えば――、
からだの……とある部分……とかさぁ……、
……脱線しちゃった。
胸に手を当てて、思考を整理する。
ともかく。
高校生と小学生の料金が同じな映画館という場所は、アタシを受け入れてくれる貴重な場所だったのだ。
高1のときとか高2のときとか、お小遣いを渡されたら速攻で映画館に行っていた。
当時、劇場で観た作品が、いまだにアタシの支えになっていたりする。
……もう、卒業するまで、行く機会、ないんだろうか。
これから、ますます忙しくなる。
映画鑑賞どころじゃなくなる。
小学生と同料金で映画を観られるのも……あとわずかだから、
名残惜しいのが、本音だ。
できたら……今年中に、もう一度……。
どんな作品でもいいから、どこの劇場でもいいから。
× × ×
最近は、KHKに「来ても来なくてもいい」とか言って、羽田利比古をわざとぞんざいに扱っている。
理由は――距離を、取りたかったから。
羽田がKHKに不要だとか、そういうことではない。
アタシの個人的な問題。
KHKの活動という次元から離れての問題。
アタシの、羽田に対する、意識……の問題。
距離を取りたいというのは。
いったん、遠ざけておかないと……認識が、おかしくなるから。
アタシの、羽田に対する、認識が。
ありていに言えば――、
羽田のことを、これ以上過剰に意識したくないのだ。
だって。
先月の合宿のときとか、ひどかったから。
なぎさに、羽田を「男の子として意識したりはしないんですか」と訊かれた途端、感情のまとまりがつかなくなって、「なんにもないから!」と否定するたび、動揺が収まらなくなっていって。
しかも、その晩見た夢で、羽田の顔が浮かんで出てきて、寝起きのアタシはとうとうヘンになってしまいそうで、なぎさに頼りっきりじゃないと羽田の前に出ていけないほど、気持ちが暴れてしまっていた。
冷静になりたかった。
もっと落ち着いて、羽田と関わりたかった。
だから――距離を遠ざけた。
万に一つ、アイツのことを異性として意識してしまうようになったら、KHKも放り出して、大学受験も放り出して、挙げ句の果てに不登校になって、卒業すらできなくなってしまうかもしれない。
適度な距離を保たないと、アタシがアタシでなくなるどころか、気持ちがどうしようもなくなって、自分から壊れていっちゃいそうで、
とにかく――羽田のことが好きになるなんて、ありえないことだし、あってはならないことだった。
× × ×
「来ても来なくてもいい」とは言った。
「来るな!」と言ってるわけではないから、羽田がKHKに来てしまうことはあった。
週3回ぐらいの頻度だと思う。
もともと【第2放送室】でのアイツとアタシの物理的距離は近くなかった。
でも念には念を重ねて、アイツがなにか言ってきたら、以前にもまして超適当に『あしらう』ように心がけてきた、つもりだ。
それに加えて、眼を見るとそれだけで過剰意識になっちゃうから、アイツの顔に向き合わざるをえないときは、わざと視線をズラして、喉元(のどもと)とか制服の胸ポケットとか…その辺(あた)りを見るようにしていた。
もっとも、アイツから目をそらすに越したことはないから、話を聞き流せるときは、全部そっぽを向いていた。
アイツは、アタシの様子が「いつもと変わらない」って、『誤解』しているはずだ。
じゃなきゃ困る。
アタシは――羽田の『誤解』を、信じている。
× × ×
羽田が【第2放送室】にやって来ないに越したことはない。
放課後の【第2放送室】にアイツが居ないと、ほっとするようになってしまった。
週3回の羽田が来る日より、週2回の羽田が来ない日を待ちわびるようになってしまった。
それでいいのか――という自分に対する疑念もある。
けれども、下校時刻が近づいて羽田が来ないのが確定的になると、ひとりでに安心して、プレッシャーから解放された気分になる。
裏返せば、逃げてるということ。
イヤなことから逃げてるということを自覚するのほど、恐ろしいことはない。
× × ×
水曜日。もうすぐ夕方6時…。
【第2放送室】。
きょうは、羽田が来ない日のほうだった。
『もう大丈夫だろう』
そういう気持ちになってしまう自分が、少しだけうらめしい。
自己嫌悪が芽生えはじめている。
なぎさとクロはもう帰った。
『ずっと、このままでいいんだろうか……』
揺らぎ始めている。
距離を取る、という手段は、もしかしたら間違いなのかもしれない。
アタシが最近羽田にとってる態度は、羽田に対する裏切りで……さらには、自分自身に対する裏切りみたいなものでもあるのかも……。
揺らいで、揺らいで、ワケがわからなくなり始めた。
突っ伏して、自分の殻に閉じこもるように、小さなからだを丸くする。
うつむいて、何も見えないから、外の廊下の人の気配なんて何にも感じなくって、
それで、
気付いたら――、
アイツが、羽田が、
アタシのすぐそばに、立っていた。
「アンタいつ入ってきたの。なんで今さら――」
動揺を隠せない声に、なっていた。
びっくりして、距離を取るとかそんなこと、頭から消えてしまい、
羽田の眼を、まともに見つめてしまった。
「いったん帰りかけてたんですけど、大事な用事を忘れていたので、あわてて戻ってきたんです」
「大事な用事って、なに、なんなの」
アタシがテンパっているのを知ってか知らずか、自分のバッグの中に手を入れたかと思うと、
「映画のチケットを2枚もらったんですけど、1枚余ってしまって」
羽田がバッグから取り出したのは――映画の前売り券だった。
「会長、受け取ってくれませんか? 姉は『映画館に行くのめんどい』って」
渡りに船、って――こういうことをいうんだろうか。
いますぐ羽田の手から、券をぶん取りたかった。
久々に、映画館に行ける。
しかも、タダで。
――だけど、いちおう突っぱねておくのが、『礼儀』だと思い、
「ほかのお邸(やしき)のひとにあげればいいじゃない」
心に思ってもないことだったが、言ってみた。
「みんな都合がつかないって言うんです」
アタシにとってはこれ以上ない好都合だよ。
「それに――会長、映画、好きでしょう?」
軽い、不意打ち。
アンタにそんなこと言ったっけ。
――これも、いちおうの『礼儀』として、
「なんでわかんの」
と反応を返したら、
「男のカンです」
え~っ。
なにそれ。
「なにそれ。羽田の口から、そんなセリフが出るなんてね」
笑いを、こらえきれない。
お腹を抱えて笑いだしてしまう。
アタシの爆笑ぶりに、不満そうな羽田。
アンタのそんな不満げな顔も、ますます笑える。
ごめん、アタシ、しばらく笑い止まんないわ。
「――大丈夫ですか?」
笑いすぎて、いつの間にか喘(あえ)いでいた。
「とにかく、受け取るだけ受け取ってくれませんか?」
呼吸を整えながら、羽田の手から券を奪い取った。
「ふーっ」
若干わざとらしく「ふーっ」と言ってみた。
それから、ちょっとだけ、沈黙。
せっかく、映画館に行けるんだから、
『いつも』と同じじゃ、楽しくない。
アタシの心はもう決まっていた。
あとは、自分の意思を、眼の前の羽田に示すだけ。
「ねぇ」
「なんですか」
「羽田はひとりで観に行くつもりだったの、映画」
「仕方なく」
「仕方なく、とか思ってるんならさあ……」
「え、もしかして会長」
「……アタシと行こうよ」
衝撃を受けた羽田は、
「どういう吹き回しですか!?」
「どうもこうもないっ!」
置いていた大学ノートをハリセン代わりにして、
羽田の頭をポカッ、と叩く。
「アタシだって……ひとりで観るのは、つらいんだよ」
笑顔で、半分冗談めかして、そう言った。
× × ×
オトコとふたりで、映画観に行くなんて、
……いわゆる、例のあれに、違いないんだろう。
否定なんかしない。
誘ったことに、後悔なんかない。
初めて映画に誘ったオトコが……羽田だなんて。
事実は映画の脚本よりも奇なり……だな。
約束は日曜日。
…どんなワンピース着ていこうか?
もう、そんなことまで、考え始めている。