1点差。
1点差で――負けてる。
0対1。
すでに後半、時間は刻々(こっこく)と経過していく。
元マネージャーの藤村さんやマオさんはもちろん来ているし――約束通り愛ちゃんも来てくれた(アツマさんを連れて)。
わたしの右隣にはあすかちゃん、あすかちゃんの隣には、彼女の部活の先輩の岡崎くんと、後輩の加賀くん。
岡崎くん――夏祭り以来だった。
あすかちゃんからは前もって伝えられていた、
「ハルさんと訳(ワケ)ありなんですけど、勘弁してあげてください。なんか変なこと言い出したら、わたしがお仕置きしますから」
お仕置き、は――する必要もないと思うけれど。
ハルくんと、なにがあったか知らないけれど、試合場に来てくれたってことは、応援する意志があるってことでしょう。
終始、ムスッとした顔で、試合を眺めているけれど。
岡崎くん、いつもこんなに寡黙(かもく)な男の子なのかしら……って、あすかちゃんに訊いているゆとりもない。
がんばって……ハルくん。
同点に追いつけば。
同点に追いつけば、流れがこっちに傾くかもしれない。
流れを引き寄せられれば――勝ち越せる。
「がんばって、まずは1点よ!!」
「ほら、アカちゃんみたいに声援を送ってあげて、アツマくん」
「……」
「なんでそこで沈黙するのよ!? あなたの母校がこんなに頑張ってるのよ」
「……、
集中力!!」
「微妙でしょ……その応援は」
「ヘタなこと言えないから。精神論かもしれないけど」
「アツマさんなりに、ことばを選んでくれてるのよ、愛ちゃん」
「いちばん頼りになると思って連れてきたのに…こんなのでゴメンねアカちゃん」
いつも以上にアツマさんに容赦ない気もするが、そんなこと言っちゃダメよ……とたしなめているゆとりもない。
一方、あすかちゃんは、お兄さんのアツマさんに気を払うヒマもなく、固唾(かたず)を飲んで戦況を見守っている。
正直、攻めあぐねている。
逆に、攻め入られている――がりがりと、こちらのパワーを削られているみたいに。
アディショナルタイムが近づいてきた。
「よし――取った。ここ、ここですよ、ハルさん」
祈るように、あすかちゃんが言った。
ドリブルでどんどんハルくんが攻め上がっていく。
ディフェンスを抜く。
『行け、ハル!!』
藤村さんとマオさんが同時に叫ぶのがわかった。
ここで決めてほしい。
ここで、決めなきゃ。
センタリングを上げるハルくん。
シュートが撃たれる。
ゴールポストに弾かれる。
でも……まだ、終わってない!
ボールが生きている!
「決めて!! ハルくん」
ペナルティエリアに突っ込んで、
彼が放ったシュートは、
……無情にも、ゴールポストに弾かれた。
こぼれ球……。
こぼれ球を――相手チームに奪われたかと思うと、瞬時に、一気に自陣に攻め込まれていく。
カウンターだ。
均衡が破れたのは、あっという間だった。
ゴールネットが揺れた。
0対2。
もう……残り時間は。
声が、出なくなった。
それはわたしだけではなく、応援席のみんなが沈黙にとらわれていた。
絶望に包み込まれかけているのは、応援席だけではなかった。
集中力の糸が切れたみたいに、ピッチの選手たちの動きが緩慢になっていく。
あれだけの運動量を見せていたハルくんが、トボトボと歩くようになっている。
あれだけ、全速力で、走りつづけていたのに。
アディショナルタイムで、2点差。
現実は、重すぎるくらい重くて、わたしたちは潰されかけていた――、
そのときだった。
急に、岡崎くんが、立ち上がって、
「あきらめんなよ!!
あきらめんなよ、おい!!
ハル、てめぇ!!
無様な格好しやがって!!
いまのてめぇみたいに気弱な野郎なんか、誰も応援しねぇぞ!!
走るんだよ!!
時間がある限り、走れ、あきらめんな!!」
――突然の絶叫に、彼の左隣のあすかちゃんが呆然としている。
もう黙っていられないという表情の、岡崎くんだった。
なんだか――わたしまで、叱られている感じがした。
応援することを、声援を送ることを、わたしは勝手にあきらめていたのかもしれない。
「岡崎センパイ……大丈夫だよ。
勝負を捨てた顔じゃないよ、あれは」
岡崎くんの右隣で、加賀くんがボソリとつぶやいた。
歓声が、よみがえっていく。
きっかけは、もちろん岡崎くんの絶叫。
アディショナルタイムが何分かなんてことも忘れて、わたしたちは、声を枯らしてピッチの11人を励ましつづけていた。
× × ×
「そっとしといてあげたほうがいいかな……」
誰からともなく、そういう声が出た。
ひとり、またひとりと、応援席から姿を消していく。
虚空を見つめるようにして、グラウンドを眺めている。
もうだれも駆け回っていないグラウンドを。
「アカちゃん」
そっと声をかけてくれるのは愛ちゃんだった。
「名残惜しいのは、わかるけど、さ」
ごめん。
ごめん、愛ちゃん。
わたしまだ――やり切っていない。
やらなきゃいけないことを、やり切るまで――、
アディショナルタイムは、続いていく。
だから。
× × ×
それからわたしはスタジアムの周りを彷徨(さまよ)った。
サッカー部が、現地解散かどうかは、知らされていない。
けれどもそれはどうでもよくって、
きっとハルくんは――まだ、ここのどこかにいるはずだから、
信じて、彷徨(さまよ)いつづけ、彼をさがし求めつづけた。
× × ×
迷子になった子どもみたいだ、いまのわたし。
ゲートやスタンドからかけ離れたような場所に、ふらふらと迷い込んでしまった。
でも案外、こういう人気(ひとけ)のない場所に居残りたい、という気持ちに、ハルくんはなっているかもしれない、
半ばやけっぱちでそう思っていたら、
なぜか岡崎くんが――わたしの眼の前に現れた。
「アカ子さん」
恐縮そうに口を開いた岡崎くん。
「アカ子さん。残念ながら、ハルを見かけてしまった。
きみが……ついていてあげてくれ」
× × ×
ドキドキしながら、岡崎くんに教えられたとおりに、ハルくんに向かっていく。
足取りは、自然と速くなって。
全速力で駆けていた。
ランナーズハイみたいになってたかもしれない。
――けれども、わたしはとうとう見つけた。
彼を。
わたしだけは――彼をそっとしておけない。
いったん、立ち止まった。
聞こえるか聞こえないかわからない声で、
「ハルくん……。」と名前を呼んだ。
ハルくんは初め、眼を見開いて、『なんでここがわかったんだ』という様子で、でもそのあとで、しょうがないなあ……と言わんばかりの、笑い顔になった。
けれども、
寂しさも、
虚しさも、
哀しさも、
情けなさも、
くたびれも、
彼は――全然、拭(ぬぐ)えていない。
だから、わたしはふたたび駆け出した。
ハルくんに、突進していって、勢い余ってぶつかった。
からだが、ぶつかって――、
気付いたら、彼を……押し倒していた。
無我夢中で、息切れがした。
呼吸を、少しだけ整えてから、
「ハルくん……わたしを撲(なぐ)って」
なにを言ってるんだ、というような顔になるのは当然だ。
わたしでも、なにを言っているんだか、わからない。
「どうかしたのか……アカ子」
「どうもしないわ。
でも、お祈りしたでしょ、ことしの初詣のとき。
『ハルくんが、ケガしませんように』って。
神さまとの約束――自分から破っちゃった」
こんなふうに押し倒したら、ハルくん、痛いに決まってる。
「だから。ケガさせちゃったから、いま。約束破った罰で、わたしを撲ってくれていいから……」
ゆっくりとからだを起こして、
なぐさめるようにして、
わたしの右肩を、そっと抱く。
「そんなバカみたいなこと、出来るわけないじゃないか」
「だって…」
「おれはどこもケガしてないよ。きみの早とちり」
「強がらないでっ」
「強がってるのは――どう考えたってきみのほうだよ」
言いたいことばは、あふれるくらいあるのに、
うまく喋れない。
ただ、ひとことだけ、
「もっと……くやしがってもいいのよ」
「くやしがりすぎなぐらい、くやしがったさ」
わたしの背中を、ポンポン、と、さするようにして叩く。
「なんで、どうしてそんなに、優しくなれるの……負けたのよ、あなた」
精一杯の嘆きが漏れ出す。
彼は、
「負けた勝った以前に、納得なんてしていない。していないけど、これが終わりじゃないってことだけは、はっきりとわかる」
「これからどうするの……あなた」
「そうだな――」
笑いかけて、彼は、
「アカ子が、そばにいてくれたらうれしい。支えになってくれるのなら、もっともっとうれしい」
「それならお安い御用よ」
どうしようもなく、本音が漏れた。
「……よかった」
「今度こそ――神さまに誓うわ。
あなたを、絶対に見捨てないって」
穏やかな笑(え)みが、自然とこぼれる。
見つめ合って、笑い合って――お互いに、また、これからもずっと、
支え合っていける。