川又ほのかさん。
文芸部の、わたしのかわいい後輩である。
最近では、顔を合わせるたびに、読んだ本の情報を交換したりしている。
「羽田センパイ、最近なに読んでるんですかー?」
そうわたしに訊く川又さんが、なんだか人懐っこくて、かわいいのだ。
それにしても、川又さんも、読書家。
負けちゃうかも――。
× × ×
そんな川又さんが、わたしの教室を訪ねてきた。
『羽田さん、2年の川又さんが呼んでるよ』
「珍しいわね、こっち来るなんて。いつもは直接図書館に向かってるんでしょ?」
「あの…、いっしょに部活行きたいとか、そういうんじゃないんです」
「え、どうしたの」
「羽田センパイ……」
恐縮そうな彼女の瞳。
どうしちゃったっていうんだろう。
「……センパイ、お願いがあるんです」
× × ×
「わたしに、ピアノを弾いてくれませんか?」
それが、川又さんの大胆な告白、だった。
できるだけ人気(ひとけ)のない裏庭に移動したわたしと川又さん。
秋めいた、穏やかな空気が流れている、
そんな中で――、
川又さんの顔だけが、火照(ほて)っている。
「なんでまた」
「だって…センパイ、ピアノ上手いって」
「上手いかなぁ?」
「謙遜しないで……センパイ」
今までになく川又さんが本気な気がして、少しわたしはうろたえる。
「……イヤなんです、センパイが卒業するまでに、センパイのピアノが聴けないのが」
卒業。
その2文字に、わたしは少しドキリとする。
「――そうね。
川又さんを置き去りにするのは、よくないよね、
わたしがピアノを、弾かないまま……。
でも、わたしの演奏に、そんなに価値、あるかなぁ?」
「だから謙遜しないでくださいって」
「ご、ごめん」
「センパイが言うように――、
取り残されるのが、怖いんだと思います。
センパイが卒業しちゃったら、
寂しさに……耐えられないような気がして。
だけど、
最後に、センパイの演奏が聴けたなら、
ちょっとだけ……耐えられるようになると思って」
「でも――まだ9月よ?」
「わたしもう待てないんですっ」
川又さんは本気だ。
焦る気持ちも、わかるような気がしてくる。
「――しょうがないなあ。
音楽室、たぶん借りられると思うから。
伊吹先生と松若さんの連絡先知ってるから、部活遅れるって伝えとくよ。
今日だけだからね――?」
そう言って、念を押すように、彼女の顔をまっすぐに見る。
彼女の顔は、うれしさ半分、恥ずかしさ半分。
× × ×
音楽室。
「――川又さんさ、」
「なんでしょうか、センパイ…」
「最近、わたしより本読んでるんじゃないの?」
「いいいいいきなりなに言い出すんですか!!
ピアノ関係ないし!!」
構わずわたしは続ける。
「川又さんと話してて、そう思うの。
読書量、増えてるでしょ? あなた。
わたしは反対に読書量、減るばっかりで。
……年取ったから、かな?」
「と、とぼけたようなこと言わないでくださいよ、『年取った』なんて……」
「『年取った』は、半分冗談」
「そこは、全部冗談に、してくださいっ!」
「ふふっ」
「――読書量増えたとか減ったとか、あんまり関係なくないですか?」
「たしかにそうかもねぇ。
でも、川又さん、あなたが将来有望だと思ったから」
川又さんはうろたえ始めて、
「わ、わたし雑談しに音楽室来たんじゃないです、弾いてください、ピアノを」
けれど、わたしは重ねるようにして言う、
「ほんとに将来有望なんだよあなたは。
楽しみなんだから――先のことが。
忘れないからね、卒業しても、あなたのこと。
まー、忘れちゃいけないなんて、あたりまえだけど。
だけど、あたりまえだから、敢えて言うんだ――絶対忘れないって」
一瞬の静寂。
「――せっかくだから、あなたが好きって言ってた曲、弾いてあげるよ」
「えっ。――センパイ、わたしが好きな曲、覚えてるんですか」
「イジワルなこと、言ってあげようか――この際だから。
わたし記憶力いいのよ。
頭がいいから、かな」
「せっセンパイが頭いいのは当然じゃないですか」
「でも――川又さんが好きな曲の旋律まで暗記してるなんて、思ってもみなかったでしょう?」
また、一瞬の静寂があって、
かわいく微笑んだ彼女が、わたしに言う。
「センパイは――天才です」
「やだなあ~」
「だけど――案外、真面目じゃない」
「……よくわかってんじゃないの」
「ようやく気づきました」
「川又さん」
「ハイッ」
「しっかり聴くのよ」
「もちろん……。」