放課後
図書館(愛の文芸部の、活動場所)
「アッさやかだ」
「ハロー、愛」
「(右手をさかんに振りながら)さやかがここ来るなんて、めずらしいじゃな~い」
「(・・;)…どしたの、愛?
…その挙動は。」
「ん?
あっw
いけないいけない…、
無意識のうちに、シェイクハンドしてたw」
「(゜o゜; …シェイクハンドって…卓球?」
「そう。きのう、卓球したの」
「どこで? だれと?」
「児童文化センターで。
小学5年生の男の子と」
「(゜o゜; えっ………」
「大人げないなー、わたしw
10連勝しちゃったw」
ーーほんとうに大人げない愛なのだが、
でも結局、その男の子の要望には応えて、
エレクトーンでKing Gnuの「白日」を弾いてあげた、
そうな。
× × ×
「『白日』、ねえ。あの曲、GRAPEVINEと紛らわしいよね」
「そうなのよ。
それで間違えて、さいしょはGRAPEVINEのほうの『白日』弾き始めちゃって」
「そりゃーその男の子も戸惑うよ」
「ーーで、
こんな話するために、わたしはここ来たんじゃないの」
「なんの話、しに来たの?」
「(少し恥ずかしくなりながらも)…、
文学談義。
ここ、文芸部なんだし。」
「へー」
「愛はさ、」
「なに?」
「この小説…読んでるよね」
(カーディガンのポケットから文庫本を取り出す)
「もちろん読んでるけど、
これ、わたしが知ってる『シッダールタ』じゃない」
「!?」
「表紙がもっとシンプルだった。
新潮(文庫)のヘッセっていえば、薄い水色みたいな装幀で、表紙の上のほうに題名が明朝体で書かれてて」
「あー…愛、あんたの言わんとしてることは、だいだいわかる」
「小綺麗になったのね」
・愛の文芸部の後輩の川又さんが、旧・新潮文庫『シッダールタ』を書棚から持ってきてくれる
「羽田センパイ、青島センパイ、これのことですよね」
「あ~そうそう、川又さんありがとう」
「ゴメンね、川又さん。
「(@_@;)!? 青島センパイ!?!?」
そんなにおどろかなくてもw
「さやか、本題はもちろん装幀のことじゃないのよね」
「うん。
『シッダールタ』のいちばん最後の章でさ、シッダールタの親友だったゴーヴィンダが、川の渡し守になったシッダールタと再会するじゃない?」
「そもそも章名が『ゴーヴィンダ』だったでしょ?」
「(^_^;)…よく憶えてるね。」
「それでシッダールタ君とゴーヴィンダ君が最後の対話をするのよ」
「(-_-;)…よく憶えてるね。
シッダールタ君もゴーヴィンダ君も、このときはもうおじいちゃんだけどね」
「で?」
「わたしが考えてることはね、
『ことばを否定しつつことばを紡(つむ)ぐ』っていう作家の営みって、いったいなんなんだろうか、って。」
「(即座に)ああ、それでヘッセの『シッダールタ』なのね」
「わかる?」
「わかる」
「最終章で、シッダールタは『ことば』から解き放たれてるように思う。
もっといえば、『ことば』を重く見ない、どころか『ことば』に否定的になってる。
でも『シッダールタ』っていう作品ーーというより、テクスト、っていったほうがこの場合いいのかなぁーーともかく『シッダールタ』自体は、間違いなく『ことば』で紡がれてる、『文学』なの」
「わたしには文学理論のことなんてよくわかんないけど」
「うん……」
「テクストとかテクスト論とか『作者の死』とか受容理論とかどうこうはおいておくとして、シッダールタはヘルマン・ヘッセじゃないし、ヘルマン・ヘッセもまた、シッダールタじゃない」
「でも『シッダールタ』読むときに、ヘッセっていう作家の存在や、ヘッセの意図を全部カッコに入れちゃうなんて無理でしょ」
「そうね。『作者』を殺すのもケースバイケースね」
「だったらやっぱりシッダールタと同じようにヘッセも『ことば』を否定してる。
否定しながら、シッダールタが『ことば』を否定する『ことば』を『ことば』によって創(つく)り上げてる」
「ややこしいわねw」
「うん…でも、ここでは、『文学』が矛盾のようで矛盾じゃない。
ーーいったんはそう理解するけど、やっぱり矛盾じゃないようで、矛盾してるようにも思っちゃう」
「『シッダールタ』の矛盾?」
「『シッダールタ』の矛盾だし、『シッダールタ』に出てくるシッダールタの矛盾だし、『シッダールタ』を書いてるヘルマン・ヘッセの矛盾でもあるし」
「でも、気づいてみれば、一貫性を認めてしまうんでしょ」
「うん。もう一度ふりだしに戻る。『シッダールタ』では、『文学』が矛盾のようで矛盾じゃないよね、って」
「…わたしはね、この最終章だと、
『愛こそいっさいの中で主要なものである』と自分は思ってるんだ~ってゴーヴィンダに言い放つように、シッダールタが『愛』を強調しているのが、ことばや思想の否定っていうテーマよりも気になっちゃうんだけど」
「でもシッダールタは『ことばを愛することはできない』って言ってるよね、『私はことばをひどく疑う』って言ってるよね。
それはやっぱり、ことばに対して『愛』や『信頼』がないってことでーー、
だからここでいちばん重要なのは、ことばに対する否定的なニュアンスであって…、
ごめん、読み込んでないからうまく整理できなくて。
わたしが言い出しっぺなのにね」
「『ことばを愛せない』『ことばを信じられない』ってシッダールタは言うけどさ」
「うん…」
「ヘッセは絶対ことばを愛してるし、ことばのちからを信じてるよねw」
「ーーほんとだ。きれいに矛盾してる」
「そう、矛盾してるけどその矛盾が清々(すがすが)しいほどきれいなのよねw
だってことばを愛してなくてことばを信じてなかったら、絶対こんなの書けないよっ!」
「ーーそこが、ヘッセが一流の書き手である所以(ゆえん)なのかも」
「一流・二流・三流っていう分けかたはわたしは好きじゃないけど、ヘッセが後世に残る、残っている所以、『シッダールタ』が読まれ続けてる所以…っていうんだったら、しっくりくる」
「そうだよねえ、『一流の書き手』なんて形容、ちょっと紋切り型過ぎたかw」
「『ことばを否定しつつことばを紡(つむ)ぐ』、だっけか」
「そう、ヘッセに限らず、そういう作家の営みってなんなんだろうか? って」
「ほんとにヘッセって、ことばを否定してるのかしら」
「えっ!?」
「こう言ったほうがいいかなーー『単なることばの否定じゃない』『ことばを否定するということに留(とど)まっていない』」
「ことばを否定する『だけでない』としたら、ことばをどうしたいんだろ、どうしたかったんだろ、ヘッセは」
「うーん、
まず、ことばに対する圧倒的な信頼があって、」
「ことばに対する圧倒的な信頼、って、一般論ぽくて、正直わたしはあんまし好きじゃないな」
「でも、さっきも言ったとおり、ヘッセはことばを愛してるし信じてるよ」
「……」
「……」
(しばし無言になる)
× × ×
「わかった」
「えっ、なにがわかったの? 愛」
「さやか、ヘッセは、ことばをことば以上のものにしたかったんだよ」
「ことば以上のもの……、
しっくりくる気もするし、しっくりこない気もするし、個人的にはあんましっくりこないかもしれないw」
「わかるよw思いつきだったしw
でも、たとえばカントの哲学書を読むとして、やたら『超越的◯◯』とか出てくるじゃない」
「『純理(『純粋理性批判』)』とかね」
「そーそー。ドイツのほかの哲学者も含めて、『超越』って概念が共有されている、気がして」
「気がするだけかもしれないよ」
「それでもさ、ドイツ語で考えたり書いたりするうえで、哲学者だけじゃなくて文学者も含めて、『超越』っていう、うまくまだ説明できないけど…『超越』っていう働きが、作用する……って言えばいいのかな? とにかく書かれたものには、『超越』っていう働きが介在してて、その『超越』の働きはテクストとテクストのあいだで共有のもので」
「『超越』『超越』って、なんか堅苦しくない?w」
「うん、堅苦しいね、哲学事典も参照してないし、やたら『超越』を連発するのは良くない気がしてきた。
でも、『ことば以上のもの』ってわたし言っちゃったけど、『超越』が堅苦しいなら、そうだな、たとえばさやかが読者としてヘッセの書かれたものを読むよね、そのとき、眼の前で記(しる)されてる『ことば』を『飛び超(こ)えていく』、なにか…を感じることは、ない?」
「その『なにか』が『なんなのか』が肝心だと思うけれど。
『シッダールタ』に関しては、とくに最終章で、ことばを否定するような語りかたをして、そのうえで、ことば『によって』ことばを『乗り超(こ)える』ような試みをヘッセという書き手が『実践』している。
そういう印象、かな」
「ねえさやか、ヘルダーリンっていう詩人、知ってる?」
「名前だけは…」
「ヘルダーリンの詩を読んだりすると、『ことばを飛び超えていく』、あるいは『ことばを乗り超えていく』感覚が、ヘッセよりもあからさまに鋭く印象づけられるなー、って」
「ヘルダーリンか…」
「なんか脱線しちゃったね、さやか」
「ずいぶん時間が経っちゃった」
「川又さんも眼を回してる」
「(^_^;)あっ…。
なんか、わたしと愛で、二人だけの世界に入っちゃった」
「まあ機会があったらヘルダーリン読んでみたら」
「ヘッセがヘルダーリンに化けちゃった」
「まあ…文学談義なんて、ねじれてナンボでしょ」
「(^_^;)それはどうかな……。
ま、いいや」