戸部邸
の朝
きょうもバイトに行く兄を見送る。
「いってらっしゃい」
「ああ、いってくるよ」
「お兄ちゃん」
「へ?」
「あのさ……」
「ん…」
「やっぱなんでもない」
「なんでもあるだろ。」
「………」
「おれの上着の裾をひっぱってるってことは」
「こ、こ、これは、引きとめてるんじゃないの」
「わーってるよ。
元気が出ないんだろ?」
わたしは黙ってうなずく。
なぜ元気が出ないのか。
失恋。
失恋、それを、きのうの夜、真っ先に打ち明けたのは、お兄ちゃんだった。
× × ×
「アツマくん行っちゃったねえ」
「おねーさんはきょうの予定はどうなってますか」
「わたし?
藤村さんにフランス語を教えてもらいに行くの。
それでわたしが藤村さんにドイツ語を教えるの」
「藤村さんですか……」
「? なんかあるの」
言うまでもなく、藤村さんは、ハルさんのサッカー部のOGマネージャーである。
「い、いいえなんでも」
「あすかちゃん、」
「な、なんですか」
「あんまりアツマくんのシャツ、汚しちゃダメだよw」
失恋で、兄のカラダに抱きついて泣きついたので、兄のシャツがわたしの涙で濡れてしまったのだ。
「お醤油かけて汚したとかじゃないですから。洗濯機に入れたらすぐきれいになりますから」
「そうね。
…………わたしも、アツマくんのシャツ、ぐしょぐしょに濡らしちゃったことがあるから」
「あ…!」
「だから、お互いさまってこと」
「でもビックリしたよ、急に大声が聞こえてきたから」
「すみませんでした、暴れてしまって」
「暴れてしまっては大げさだけど、あのあとちゃんと眠れた?
おねえさんはそれが心配なんだよ」
「寝ました」
「何時間?」
「6時間未満……」
「それはよくないなあ。
おねえさんがいっしょに寝てあげようか」
「こ、これは、おねーさんを巻き込むような問題じゃなくって、自己責任で、自分が自分でなんとかしなきゃいけなくて、」
「そうかー。
でも、あんまりひとりで抱え込んだらだめだよ」
「それは、そうです…」
× × ×
「あすか、目元が暗いよ。寝不足?」
「お母さん。
おはよう。」
「はいおはよう♫」
「寝不足。それになんだか、疲れが溜まってる感じがするの」
「それはイケないな~。
ちょっと背中さすってあげようか?」
「うん」
「お母さん…」
「なあに」
「この邸(いえ)って、ときどき『事件』が起こるじゃない」
「たしかに」
「きのうの夜もそうだった。
犯人はわたし、
騒乱罪…ってやつ?」
「騒乱罪ってw」
「お母さんは怒らないよね」
「アツマがなんとかしてくれたみたいだから、きのうは」
「被害者だったよお兄ちゃん。わたしが被害者にしちゃった」
「傷つけたわけじゃないでしょ?」
「うん。
傷ついてるのはわたしのほう」
「なぐさめてほしい?
なぐさめるならなぐさめるだけなぐさめてあげるよ」
「いいよ……、
ちょっと、恥ずかしいから」
「それよりもわたし、気になってることがあって。
その……『彼女』に、返事の手紙を送ったんだけど、
わたし、なぐり書きで、字は汚かったし、内容も支離滅裂な手紙になっちゃったし、で。
『彼女』をイヤな気分にさせてしまわないかが、気がかりで。」
「また、こっちに返事の返事が来るかしら?」
「ーー来たとしたら、わたし、こわくて読めない…」
「じゃあお母さんがいっしょに読んであげるよ」
「おねがい。
ありがとう、お母さん」
× × ×
流さんは、なにか感づいてるんだろうか。
ダイニング
ダイニングテーブルで、吉本ばななの『キッチン』を読んでいる、
ふりをした。
文字を眼で追ってるだけ、文章を理解しようとしても、文章がなにを云っているやら、まったくあたまに入ってこない。
そこに、タイミング悪く、流さんがやってきた。
「あすかちゃん、読書熱心でいいね」
「違います。熱心だなんてとんでもない」
いきなり、流さんに向かって、ギスギスした態度をとり始めてしまう。
本能に抗(あらが)えずに。
「で、でも、すごく集中して文庫本を読んでるじゃないかw」
「違います。そんなことないです。読んでるんじゃなくて、ページを眺めてるだけ」
「じゃ、じゃあ、速読? ほら、フォトリーディングとかそういうののーー」
「どうしてそんな話のながれになっちゃうんですかっ」
「あ、あれ」
「『あ、あれ』じゃないですよ。
流さん!
流さんはこの小説を読んだことがありますか」
「ないよ」
「正直でいいですね!
じゃあ『キッチン』が短編小説であることも知らないですね」
「そうだったの、初めて知った」
「そして『キッチン』の続編で『満月』っていう小説があることも」
「えっそうなの!?」
わたしはハハハ…と疲れた笑いを表に出す。
なにやってんだろ、わたし。
攻撃的。
「僕、吉本ばななって、敬遠しちゃってるんだな」
「敬遠!?」
「いや、その、村上春樹みたいに、ポピュラーすぎてさ、ついつい避けて通っちゃうんだ、仲間内でもそんな雰囲気になっててーー」
「『ついつい避けて通っちゃう』って、そんなんでいいんですか流さん?💢
『仲間内でも』って、付和雷同ってことですよね」
「よ、よく難しいことば、知ってるね」
「流さん小説家志望でしたよね!?
そうだったはずでしょ!?
小説の好き嫌いとか食わず嫌いしてる場合なの!?」
「(;´Д`)ど、どうしたあすかちゃん!?!? 声がとんがっちゃってるよ」
いらいら。
いらいら。
とくに自分に、いらいら。