お兄ちゃんは喫茶店でバイトだし、おねーさんは『からだがなまってるから』ってプールに泳ぎに行っちゃった。
そのうえ、お母さんも流さんも出かけてしまったので、昼間の戸部邸はわたし独りになった。
キッチンで、あまり出来のよくない昼ごはんを独りで作って、独りで食べた。
ところでわたしは今、吉本ばななの『キッチン』という小説をまさに読んでいる。
……『キッチン』の主人公のみかげみたいに、料理が上手だったらよかったのに。
でも、いくら料理が上手でも、だれかと食べないと美味しくならないよね。
とにかく、上手い/ヘタのどっちにしても、独りぼっちで昼ごはんを食べるのは、むなしいよ。
夏休みだというのも、ぼっちご飯のわたしに追い打ちをかける。
8月の昼、広いキッチン、広いダイニングに、わたしのほかに誰もいない。
へんにシーンとした、広いキッチン、広いダイニングの、静寂。
独りぼっちすぎて、気が変になったわけじゃないけど、なんだかじぶんのきょうの孤独が、愉(たの)しくなってきちゃった。
食器を洗って、片付けて、ガランとしたダイニングの食卓の椅子にもたれかかり、LEDの明かりをぼんやりと見つめながら、高校1年の1学期を振り返ってみる。
主に部活のことを。
スポーツ新聞部。
自分の意志とかそういうのとは違って、わたしはスポーツ新聞部という部活に呼び寄せられたんだと思う。
気づいたら、開(あ)けていた部活の扉。
そこで中村部長と出会い、
中村部長とマオさんの夫婦漫才みたいなやり取りを楽しみながら、
桜子さん、瀬戸さん、岡崎さん、
2年生の3人と出会い、
わたしは『球技担当』になって、
いろいろな部活を取材してさまざまなひとと交(まじ)わったり、
野球中継やサッカー中継を観まくったり、スポーツナビにアクセスしまくったり、
そして、途中でスランプになりながらも、文章をしゃにむに書き続けていたりしたら、
なぜかいろんなひとに自分が書いた文章を褒められ、中村部長はじめ部活のセンパイに信頼を置かれるようになった。
ーーそう。自分で言うの、ヘンだけど、信頼を置かれるようになったんだと思うし、スポーツ新聞部という部活に馴染みきることができたんだと、今ではそう思っている。
スポーツ新聞部と、スポーツ新聞部の活動教室は、わたしの大切な場所になったんだ。
部活動をするなかで、ひとつだけ、落ち着くことのできない場所がある。
サッカー部の練習場所だ。
春に、サッカー部を取材しはじめたときから、わたしはサッカー部に行ってくるときに限って、落ち着きがなくて、なさすぎて、あまりにも落ち着きがなかったわたしは、同じ選手のユニフォームの背中を、デジカメで大量に撮影した。
「……ハルさんなんだけどね。」
だれもいないから、天井のLEDをぼんやり見ながら、独り言をつぶやける特権と、独り言をつぶやける余裕がある。
そして軽く溜め息をつく。
3年生マネージャーのマオさんは、サッカー部の取材で、ほんとうにわたしに良くしてくれている。
でも、ハルさんがいるかぎり、わたしはサッカー部の取材で落ち着くことがない。
つまり、これからも、わたしはサッカー部を取材するときにかぎって、心が落ち着かないのだ。
サッカー部という場所が、
心が落ち着かない場所でなくなる、
そんな可能性が、ひとつだけある。
ーーアカ子さんと、ハルさんとの距離が、もっともっともっともっと縮まって、近づいて、それで、
一緒になっちゃえばいいんだ。
くっついちゃえば、いいんだ。
そういうラディカルな考えをしてしまうじぶんが恥ずかしくなって、嫌になって、胸を掻きむしりたくなる。
発光するLEDを見上げるのをやめて、今度はぎゃくに背中を丸めて、視線を床のほうに落として、アルマジロみたいに小さくなりたくなる。
弱気になっていく精神状態に反比例するかのように、しだいに脈拍が速度を増していき、とくんとくんとくんという心臓の昂(たかぶ)りがして、孤独に満ちた部屋の静けさが、鼓動の音をたちまち明瞭にしてしまう。
ガタン! とがさつな音を出して椅子から立ち上がったのと同時に、柱時計が午後2時を知らせた。
× × ×
午後4時過ぎ。
甲子園の、決勝が終わった。
履正社が、5対3で星稜に勝った。
星稜の奥川くんだけじゃなくて、たくさんの球児たちの、それぞれの夏が終わっていく。
『それぞれの球児たちの夏が終わる』
ーーこの表現、凡庸な表現だけど、いつかどこかで使えないかなあ。
近いうちに。
商店街に買い物に行く用事があった。
『甲子園の中継が終わったら商店街に行く』と決めていたし、朝ごはんの席で邸(いえ)のみんなにもそう言っていた。
エアコンを切り、戸締まりをして、邸(やしき)を出て、自転車に乗る。
× × ×
商店街の近くの駐輪場に自転車を停めて、陽が翳(かげ)り始めた商店街の、目的の店に行こうとする。
向こうから、高校生ぐらいの男女が歩いてくる。
女の子のほうは遠目でもとびっきりの美人だとわかり、いかにもお値段の高そうな洋服を着ていて、寸分のすきもないくらいオシャレだ。
男の子のほうは女の子より10何センチか背が高く、スポーツをするのかよく日焼けして、髪は短くないけれど、どこか少年のあどけなさのような雰囲気をかもし出している。
ふたりで歩いているのに、なぜかお互い視線を合わせたくないかのようで、すれ違っているような空気があって、とくに女の子のほうは、怒りっぽい表情で、斜めにうつむいている。
ケンカしちゃったんだろうか?
男の子のほうは、なんだか残念そうに、申し訳無さそうに、女の子のキレイな顔を見ることができていない。
その男女にわたしの注意力は吸い込まれ、それが必然的であるかのように、立ち止まって、向こうからやってくるふたりを、観察するかのように眼を細めて見据えはじめる。
やがてふたりの話し声が聞こえ、
聞こえ、
聞こえて、
『いい加減にして!?
なんでわたしの気持ちに気づいてくれないのよ!?』
そうやって喚(わめ)くように叫ぶアカ子さんが、わたしの視界に入ってくる。
そう、
ハルさんの腕を両手で引っ張りながら、怒った声で叫び喚くアカ子さんが。
ふたりが誰であるかを認識した瞬間から、わたしの認識はぶっ壊れてしまっていて、その場に立ちすくみ続け、買い物バッグを取り落し続けている。
やがて、眼の前のハルさんとアカ子さんが硬直を開始し、眼の前の世界は、放送事故を起こしたテレビの映像みたいに、乱れ乱れ乱れ続ける。