「模倣は独創の母である。唯(ただ)一人のほんとうの母親である。」
「模倣してみないで、どうして模倣出来ぬものに出会えようか。」
「僕が他人の歌を上手に模倣すればするほど、僕は僕自身の掛けがえのない歌を模倣するに至る。これは、日常社会のあらゆる日常行為の、何の変哲もない原則である。」
『お嬢さま~、きこえてますよ~ww』
蜜柑💢
自分の部屋の扉を開けて、
蜜柑を怒鳴りつけてやろうとしたら、
わたしの洗濯物を持ってきた蜜柑が、
目の前に立っていた。
「もうすぐハルくん来るころですねえ(ニヤニヤ)」
「(洗濯物を奪い取って)うるさい。」
「あなただって。
さっきまで、けっこう大きな声出して、本を読み上げていたじゃーありませんか。
朗読の練習ですか?」
「うるさい蜜柑。ちょっと前まで、本は音読するものだったのよ」
「ちょっとって、何年前?」
「ひゃ、150年くらい・・・?」
「wwwwww」
「(蜜柑に、じぶんの秘密を話すように)心を落ち着けたかったのよ。
だから文章を声に出していたの」
「なに読んでたんですか?」
「・・・・・・・・・・・・小林秀雄」
「小林秀雄? ずいぶん古くさいですねえ!」
「黙りなさい蜜柑!! 読んだこともないくせに」
さっきまで読んでいたのは、
小林秀雄「モオツァルト」、
出典は、
新潮文庫『モオツァルト・無常という事』68ページ。
「昭和の人でしょう? いま令和じゃないですか」
「関係ない。ぜんっぜん的外れ。
どうせあんたは、わたしがモーツァルトの曲を弾いても、1曲も答えられないーー」
「そんなことないですよ」
そう言って、にっくき蜜柑は、『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』の旋律を鼻歌で歌った。
「蜜柑ちゃん、それはねえ、一・般・常・識っていうのよ」
「じゃあこれは?」
♫ディヴェルティメント第7番(by蜜柑の鼻歌)♫
「(;´Д`)ど、どうして覚えてるのよ……」
「(・∀・`)だってアカ子さん、昔っからこの曲好きだったじゃないですか」
<ピンポーン
「ほら、お嬢さま、茶番は終わりですよ」
× × ×
蜜柑をキッチンに行かせて、
ハルくんを客間に通した。
「雨の中たいへんだったわね」
「そんなことないよ。走って来たんだ」
「!?」
「レインコート、レインコート」
「いま、蜜柑がお昼ごはんを用意しているから」
「食べたあとで、なにかプレゼントしてくれるんだったよね」
「そうよ…蜜柑が迷惑かけたのと、わたしが取り乱したお詫びに」
「なんだか申し訳ないなあ~」
なんだか、変な感じ。
以前のハルくんだったら、ひたすら萎縮していて、話す声もぎこちなかったはず。
でも、きょうのハルくん、なにか堂々としていて、自信ありげな話し方をしている。
そして問題は、昼食を用意しているはずの蜜柑が、なかなかこっちに来てくれない。
ふたりきりの時間が長引く。
わざとじらしてるの、蜜柑ーー?
会話のタネも尽き、不本意な沈黙が降りる。
わたしは時間稼ぎ用にふところに忍ばせておいた文庫本を取り出し、文章とにらめっこする。
「すごい本を読んでいるね」
「Σ(@_@;)ビクン」
「じゅんすい…りせい…ひはん」
- 作者: カント,Immanuel Kant,篠田英雄
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1961/08/25
- メディア: 文庫
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「カントって知ってるでしょ? イマヌエル・カント。哲学者。倫理の授業で名前が出てくるはず」
「まだ出てきてないよ。
でも、哲学者ってことは、いわゆる『哲学書』なんだな、その本は」
「1ページ読むのに15分かかるのよ」
「難しいんだな」
「でもこれ、上巻だけど、さやかちゃんは中巻を読んでいるの」
「さやかちゃん、って、きみの学校の同級生の青島さん?」
「そうよ」
「くやしいんだ」
「く…くやしいんじゃないんだからね、うらやましいってほうが適切だと思うわ、さやかちゃんは哲学詳しいし、愛ちゃんだってこの前『ヘーゲルの『精神現象学』を読み始めた』って言ってた……そ、そうよわたし、追いつきたいのよ」
「追いつきたい? ふたりに?」
「そう、そうだから、はやく上巻読んでしまいたいけど、1ページ15分かかるの」
「でも『純粋理性批判』はきみにとって必要な本なの」
「必要? 『この本はわたしにとって必要な本ではなかったのです』とか、言うものじゃないと思うわ」
「じゃあ言葉を変えるよ。きみ、『純粋理性批判』読んでて楽しいの?」
「(次第に声のトーンが高くなるのを自覚しながら)こういう本には『楽しい』っていう形容詞はふさわしくないのよ、みんな、みんなすぐ『楽しい/楽しくない』『おもしろい/つまらない』の二分法で片付けようとするーー」
「楽しいの反対は、苦しい、だよね。ひょっとしたら、アカ子さん、きみ、その本読んでいて、つらいんじゃないの?」
「つ、つらい読書体験の先に、歓(よろこ)びがあるのよ!!!」
息切れしてしまった。
わたしは喘(あえ)ぎつつ、ソファにだらしなくもたれかかった。
ハルくんは申し訳なさそうに心配そうにわたしを見つめていたが、追い討ちをかけるように、
「……カントはさ、
何歳で『純粋理性批判』を書いたのかな」
「……なんさいだっけ……。
確認したことなかった……。」
「(スマホをポチポチして)イマヌエル・カントは1724年生まれ。
ふむふむ……。
どうも『純粋理性批判』には1781年バージョンと1787年バージョンがあるみたいだねえ」
「たぶん、わたしが読んでるのは、1787年バージョンのほう」
「じゃあ、1787年って、カント先生、おじいちゃんじゃないかw」
「なにが言いたいの!?
もしかして、『カントが『純粋理性批判』を書いたような年齢に達するまでに、『純粋理性批判』を理解できればいいじゃないか』って考えてる!?」
「呑み込みが早いね、さすが」
「そ、それは、わたしが、お、お、おばあちゃんになるころまでにーーって言いたいのよね。
だれもそんなこと言わないだろうし、そんな悠長なこと考えていられるわけないじゃないの!!」
『墓穴を掘った』というような顔で、ハルくんが困惑しているように、見える。
「……へ、ヘンだったかな、ぼくの意見」
わたしは、いてもたってもいられなくなって、キッチンに様子を見に行った。
ハルくんから、逃げたのだ。
・・・・・・
お昼ごはんを食べているときのことを、よく思い出せない。
蜜柑と3人で食べたはずなのに、蜜柑がなにを話していたか、よく思い出せないし、
わたしが蜜柑にリクエストした大根サラダの歯ごたえも味もまったく思い出せない。
それに、ハルくんの帰り際に渡した、わたしのお小遣いで購入したTシャツ、たぶん、サイズが違っていた。
ハルくんは、わたしが思っていたより、背が高かったのだ。
ハルくん、嬉しそうな笑顏で、受け取ってくれたのに…。
「泣いてるんですか?」
「ううん。」
「ねえ、蜜柑、あなた168センチだったわよね、身長」
「はい、あなたよりちょうど10センチ高いです」
「……なんでわたし、ハルくんの身長を、あらかじめ訊けなかったのかしら……」
「久々にメソメソしてるアカ子さんが見られてうれしい」
「ばかっ」
「(穏やかな口調で)今度は、彼と服を買いに行けばいいじゃないですか…お嬢さま。」
「世間ではそれをデートっていうことぐらい知ってるでしょ」
「ふたりきりで行けなんて、言ってません」
「ついてきてくれるの?」
「できれば”殿方”がもうひとりいらっしゃれば、2対2でいい感じになるのですが」
「(顔を上げて)それは後で考えればいいわ。
蜜柑ーー、
勇気、ちょうだい?」