ご両親のご厚意で、キョウくんの家に泊めてもらえることになった。
キョウくんは、音楽と本に詳しくない。
わたしが弾いてあげるクラシックの曲名を1曲も知らなかったし、ジャズ・ミュージシャンの名前もひとりも知らなかった。
ビートルズもビーチ・ボーイズもカーペンターズも1度も聴いたことがなかった。
小説も、国語の授業でしか、読んだことがないと言っていた。
「長いあいだ、私は早く寝るのだった。
ときには、蝋燭(ろうそく)を消すとたちまち目がふさがり、
『ああ、眠るんだな』と考える暇さえないこともあった。
しかも三十分ほどすると、もうそろそろ眠らなければという思いで目がさめる。
私はまだ手にしているつもりの本をおき、明りを吹き消そうとする。
眠りながらも、たったいま読んだことについて考えつづけていたのだ。」
「それが、むつみちゃんが読んでいる小説の書き出し?」
「そう。
マルセル・プルーストっていうひとの、『失われた時を求めて』っていう本。」
「海外の作品なんだ」
「そう、フランスのねーー、
あ、鈴木道彦さんによる訳です。念のため、あしからず」
「?」
「集英社文庫版」
「?」
失われた時を求めて 1 第一篇 スワン家の方へ 1 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)
- 作者: マルセル・プルースト,鈴木道彦
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曇り空の湘南の海岸沿いを歩きながら、
キョウくんとこんな他愛ない会話をして、
わたしは満足だった。
キョウくんは、確かに、音楽と本について、なにも知らない。
でも、これでいいのだ。
不都合なんて、ここにはなにもない。