20世紀の名作文学 西脇順三郎『ambarvalia』より「失楽園」

 君は、少しでも詩を知っているだろうか。

 西脇で『ambarvalia』といえば、必ずといっていいほど、この詩が取り上げられる。

天 気

 

(覆(くつがへ)された宝石)のような朝

何人か戸口にて誰かとささやく

それは神の生誕の日。

 

 もっとも、僕は、その次の詩のほうが好きだ。

カプリの牧人

 

春の朝でも

我がシシリヤのパイプは秋の音がする。

幾千年の思ひをたどり。

 

 もっとも、もっと僕が取り上げたいのは、「LE MONDE ANCIEN」のほうではなく、「LE MONDE MODERNE」のほうに所属する、「失楽園」という長い詩だ。

 

失楽園」は岩波文庫(緑)版で約26ページにも及ぶ長い詩であり、とても全文を書き写すことはできない(ちなみに、西脇はその後もっともっと長い詩を書くことになる)。

 もちろん、「失楽園」というタイトル付けは、ジョン・ミルトンの『失楽園』を意識していると思う。だが、その話は今はどうでもいい。

 

 岩波文庫(緑)版では、「失楽園」の直前に「紙芝居 Shylockiade」という戯曲と詩が混ざったような、というより8割がた戯曲風の作品が収録されている。でも僕は「紙芝居」より「失楽園」のほうが断然好きだ。

 もっというと「天 気」や「カプリの牧人」よりも「失楽園」のほうが楽しい詩だ。なぜか。「失楽園」には句読点が一切ないからだ。

 ギヨーム・アポリネールという、いろいろなことに首を突っ込んだ作家(、ということに今はしておこう)が、1910年代前半に、『アルコール』という、当時としては凄く斬新な詩集を出した。とくに「地帯」という詩は、当時としては凄く衝撃的な作品で、なんでかっていうと、この「地帯」という詩もやっぱり句読点が一切使われていなかったからだ。もっとも僕は仏文学の人間ではない。凄く斬新とか凄く衝撃的とか”でまかせ”を連呼してるようで惨めだ。「地帯」のすさまじさは、実は句読点抜きと別のところにあるのかもしれない。

 

 で、西脇の「失楽園」である。「紙芝居」のほうは、正直ぎこちないし、読みにくい。明らかに句読点がジャマをしている。「失楽園」ではそんなジャマ物を取り除いているからシビれる。

 

 いきなり世界開闢説というゴチック体の文字が目に飛び込んでくる(開闢は「かいびゃく」と読む)。「失楽園」は世界開闢説をはじめとした7篇のそれ自体独立した詩であるかのような作品で構成されている。

 

化学教室の背後に

一個のタリポットの樹が音響を発することなく成長してゐる

白墨及び玉蜀黍の髪が振動する

夜中の様に もろもろの泉が沸騰してゐる

人は皆我が魂もあんなでないことを願ふ

人は材木の橋を通過する

ゴールデンバットをすひつつ

まだ一本の古い鉛筆が残つてゐる 

 

  どう?

 句読点がないでしょ?

 それに、わけがわからないでしょ?(笑)

 大丈夫だ、僕も意味がわからないから。

 ちなみに、この次の2行は、「鮭で充満する一個の大流の縁で/おれ達 即ちフッケと僕は二つの蛇のやうに横はつた」と、もっとわけがわからくなる。

 だからオレは西脇が好きなんだけどね。

 

 玉蜀黍が「とうもろこし」と読むこと、「ゴールデンバット」がタバコの銘柄であることくらいはわかるかな。

 

 残念ながら、この詩は古い。古いから、多少は読みにくい。たくさん横文字が使われているけど、カタカナ表記が古いものが多い(ちなみに、研究によると、西脇はわざと言葉をずらして固有名詞みたいなものを創作しているらしい)。

養鶏場からたれるシアボンの水が

おれの想像したサボテンの花を暗殺する

そこに噴水もなし

ミソサザイも辯護士も葉巻(シガー)もなし

「シアボン」は「シャボン(石鹸)」のことだろう、たぶん。でもなんで養鶏場から石鹸水が垂れてくるんだろう? と君はきっと疑問に思うだろう。必然性がない。実はこういう点が「シュールレアリズム」の最大の特徴なのだ。少なくとも僕個人の考えではそうだ。

 必然性がないのが理不尽だと思う人たちには、西脇はたぶん人気がないんだろう。

 それに君はこう思うはずだ。「なぜサボテンの花が『暗殺』されるのか」。たしかに植物は暗殺される対象ではない。暗殺される対象は人間だ。

 でも、これは明らかに「比喩」だ。ずいぶん飛躍しているものだといつも思いはするけど、サボテンの花を「殺す」のでは弱い、サボテンの花を「暗殺する」のでないと、詩の言語として強くないのだ。

 最大の謎が控えている。なぜミソサザイと辯護士(弁護士)と葉巻が並列になっているのか。究極の答えは出ないままだ。

 西脇の詩には「答え」があるという人もいるようだ。ただ、やはり西脇の詩のことばは、感覚に訴えかけてくるものでしかないと僕は思う。西脇は遅咲きの詩人で、ヨーロッパへの遊学期間が長かった。自分が卒業した慶應義塾大学で文学を教えていた。たしかに西脇は学問や知識に裏打ちされたものを書いている。それに異論はない。

 ただ、僕の想像の域を出ないものではあるけれど、やはり「失楽園」みたいな作品は、自動筆記で書かれたんじゃないかなあ、そう思う。自動筆記という「スタイル」で書かれた、そう言っても良いかもわからん。

 自動筆記じゃないと、ミソサザイと弁護士と葉巻は並列にならないように思う。

 もし君が、自動筆記とは何か知りたくなったら、アンドレ・ブルトンという人のことを調べてほしい。それから、西脇のことがもし気になったら、絵画を学んで欲しい。西脇がもともと画家志望だったということも関わってくるが、作家論を超えた次元で、西脇を読む人は絵画を観なければならないのだ。

 

出典:『西脇順三郎詩集』 那珂太郎編 岩波文庫 1991

 

西脇順三郎詩集 (岩波文庫 緑130-1)

西脇順三郎詩集 (岩波文庫 緑130-1)