穂積陳重『法窓夜話』

「法をひろい側面でとらえ、日本の近代法成立に力を尽くした著者ならではの興味深いエッセー」と帯には書いてある。

 

 百話あって、僕は50話まで、つまり半分を読んだ。折り返し地点だ。

 

51 民法

 民法という言葉は、津田真道先生という人が、慶応4年(1868年)に作ったらしい。民法という言葉は、箕作麟祥博士という人が、フランスのCode civilの訳語として使用し、一般に広まった。だから著者は最初は民法という言葉を、箕作博士が作った言葉だと思っていた。しかしながら著者が箕作博士に訊くと、博士は「これは僕が作ったんじゃないよ。津田真道先生の『泰西国法論』で書いてあったのを借用しただけだよ」と言われた。そこで著者はさらに津田真道先生に訊いてみた。津田先生が答えるには、「民法という言葉は、僕がオランダ語のBurgerlyk regtの訳語として新しく作ったんだ」。

 法律の訳語は、初め先人たちが作った訳語から、何回も変わった後に定まった言葉が多い。だけど、「民法」だけは、初めの訳語から一度も変わったことがなく、不動である。こう著者は主張する。(本当かなあ?)

 

52 国際法

 また法律の名前の話。

 国際法は、最初は「万民法  jus gentum」と一緒くたにされたり、「自然法 jus naturale」の一部として論じられたりして、グロティウスの『平戦法規論』(=『戦争と平和の法』)が出版された後も、国際法の概念についての独立した名称はなかった。しかし1650年にオックスフォード大学の「ザウチ」(Zouch)博士が、jus inter gentes つまり「国民間法」という名前を付け、フランスで1757年に「ダゲッソー」(D’Aguesseau)なる人が同じようにフランス語で「国民間法」という名前を付け、1789年、ついにジェレミー・ベンサムが International law という新語を作り出した。「国際法」という呼び名が固まったのはこの後である。さらにドイツでは・・・云々。

 それでは日本ではどうだったのか。最初は「万国公法」が「国際法」のことを指した。ウィリアム・マーティンというアメリカ人が、外国の本を中国語に訳して、『万国公法』というタイトルで1864年に清で出版した。日本では1865年に開成所(東京大学の前身)で翻刻・出版された。周知のごとく鎖国時代が長く続いていた日本。国民は『万国公法』を読んで初めて国と国の間にも決まりがあることを知った。『万国公法』を和訳した『和訳万国公法』などの本も多く出回りベストセラーになった。

 その後、清においては略して「公法」と呼ばれるようになった。1877年にウィリアム・マーティンがInternational lawを訳した時にも、やはり単に「公法」と訳した。その時マーティンが訳した本には、「International lawはキリスト教国間で通用する法律であって万国共通の法律ではない」と書いてあったのである。

 さて、1874年の東京開成学校(東京大学の前身)。法学の講座ができた。国際法は「列国交際法」と呼ばれた。東京開成学校が東京大学になっても「列国国際法」のままだったが、1881年の学科改正でついに「国際法」を公式に用いることになった。

 じゃあ「国際法」の名付け親はだれ? ずばり「民法」のところでも登場した箕作麟祥博士である。すでに箕作博士は1873年にInternational lawを「国際法」と訳していた。博士がいうには「マーティンや西周先生は『万国公法』って呼んでるけど、よく考えたら『国際法』のほうがニュアンスが近いと思う」。Internationalの訳語を『国際』としたのも絶妙であった。著者によると、箕作博士は日本のベンサムであるらしい。(本当かなあ。)